●橋下劇場を支えるジャーナリズムの不在●
劇場型政治・・とは言い古された言葉だが、次々に繰り出される橋下徹劇場の出し物には吐き気がする。生身の子どもたちを「人材」扱いし、自分に抵抗する教師や市職員を敵視する貧困で反人権的な人間観に貫かれた教育基本条例案や職員基本条例案。アンケートの名による市職員やそれに繋がる国民への思想調査。さらに昨日は職員のメールを無断でのぞき見調査。次は義務教育への留年導入ときた。 橋下劇場、ひと言で表現すれば要するに特高ばりの秘密警察による恐怖支配、早い話が戦前の日本帝国主義の漫画的再現にほかならない。吐き気がするのは恐らく、そのおぞましい既視感のせいだ。だが、このアナクロニズムに、人気にあやかりたい一心で中央の政党が次々にすり寄っている。元々彼らにポリシーなどないのだろう。 この横紙破りの無茶苦茶が、朝日新聞の調査では大阪府民から70%を超える支持を得ているという。つまり、コジローのような見方をする人はむしろ少数派なのであって、大多数の庶民が喝采を送っているという現実。これはもちろん、マスコミが橋下及び維新の会を天まで持ち上げていることに大きな原因があり、橋下本人もそれは認めている。テレビほかマスメディアが取り上げなくなれば、水を断たれた観葉植物のように橋下という毒草は立ち枯れるしかない。 ということで、橋下劇場の舞台には常に何かを出し続けなければならない。それも、普通の出し物ではダメで、世間がビックリするような素材、物見高いテレビや新聞が飛びつくようなネタでなければならない。おのずと、出し物も演出も、限りなく刺激的な方向へエスカレートする一方となる。でなければ、血の匂いを求めて鼻孔を広げている観客たちの喝采を浴び続けることは出来ないからだ。これは、相当大変なことだと思う。 もちろん、だからといって橋下に同情するわけではないが、こんなバカバカしい三文芝居を観客が口をだらしなく開けて見物している間に、貴重な時間と財源はどんどん失われてゆく。観客が席を占める劇場の床下に大きな陥穽が口を開いていることについて、警鐘を乱打することこそがジャーナリズムの使命だと思うが、残念ながら日本のマスコミはこのお祭騒ぎを盛り上げるのに忙しくてそちらはサッパリだ。 思想信条の自由、言論の自由はジャーナリズムが守るべき最大の価値ではないかと思うが、それが権力者によって公然と侵される事態に面してひと言もないばかりか、それがなにか新しいことのように報じるばかりとは… 再び呆れて開いた口がふさがらないが、やはりあの原発事故で見せた権力体質から、マスメディアは何も変わってはいない。←ランキングに参加してます。ワンクリックご協力を。