うつほに吹く風(80)第七章その8
「仲忠さまからのは『近き社には詣でないところも無くなったので、加賀の白山まで足を伸ばそうと思いましたが、道も知らない山に迷いました。その途中にて』ってあるけど…」「でも仲忠さまはここのところ、きっちり出仕なさってますけど…」 女房は苦笑する。「言葉遊びよね」 今宮は一宮の方を向いて言う。「そうよね。次の涼さまのもね」 二人は何とも言えない笑みを交わし合う。「で、仲忠さまは何と?」 女房達が慌てて催促する。「―――私の悩ましい心を慰めてくれる神もあろうかと北陸の路にさしかかりましたが、山へ行く道を知らないので迷っています」「つまりは行っていないのね」 一宮はほっとして胸を撫で下ろす。「言葉遊びだって言ったでしょ」「そうね。じゃあ涼さまのは」 ふふ、と笑って一宮は涼からの文を取り出す。「お便り申し上げないで久しくなりましたので、不安な気持ちが募って参り、それがひどく侘びしいものです。ああ、私はいつかどういう者になってしまうのでしょう。あなたはどういう者になって行くのでしょう。あなたは本当にひどく私を惑わせなさいます。―――自分をどうしてこうも浅はかな者にしてしまったのでしょう。現世を頼まず後世に希望を持つべきだとわかっていながら」 くす、と今宮は笑った。そうよこの感じよ、と彼女は内心つぶやく。「嬉しそうね、今宮」「え? そう見えるかしら」「見えるわ。だってやっぱり、何処かあて宮に対して皮肉気じゃない。涼さまもあて宮のことは本当に懸想している訳じゃあないのよ」「やっぱりここは姫さまに」 女房達もそうだそうだ、とうなづきあう。今宮は大きく手を振る。「その話は今は無し! 少将仲頼さまのお文に行きましょう」「仲頼さまと言えば、先の宮あこ様の舞をお教えになったのはあの方とか」「何でも宮あこ様のお出来が悪うございましたら、この屋敷に出入りが出来なくなるとばかりに、必死だったそうですよ」「行正さまも家あこ様にはずいぶんとお教えなさったそうですが、あの方は前から向こうの方々とは懇意になさってますから、仲頼さまが宮あこ様にお教えするよりは簡単だったのではないでしょうか?」 そうねえ、と今宮はうなづく。「あの子も最近は何かと懸想人達に使われてばかりだとふてくされていたものね。仲頼さまが懸想人の一人だと知ってはいたし」「そうですよ。それでもあの素晴らしい舞まで御指南下さったのですから」「一度お決めになったことは、やっぱり貫き通す御気性なのですね」「あて宮さまとまでは行かなくとも、いずれかの姫さまと縁付いて欲しいものですわね」「…私は嫌ぁよ」 女房達の口さの無い言葉に、一宮がつぶやく。「私、仲頼さまには元の北の方の所へ戻っていただきたいわ」「…一宮さま」「一宮」「仲頼さまはあて宮には浮かれているだけなんでしょう? 北の方も素敵な方だと噂していたじゃないの、あなた達」「それは」 女房達は顔を見合わせる。確かにそうだった。元々評判の美人だと。嗜みも優れていて、もう少し裕福だったら懸想人もたいそう沢山現れただろう、と有名だったのだ。「それにほら、吹上からの帰りだって、あて宮目当てでお祖父様の所に来る前に、ちゃんと舅の宮内卿どののところへ行ってきたって」「確かに…」「そういう律儀なひとが、あて宮に惑わされているのは良くないと思うわ」「一宮」「北の方はきっと寂しがっているわ。実忠さまだってそうよ。何をやっているのかしら。子供が何人もいて、仲も良かったというのに、何が恋よ。一人勝手じゃない。私はそんなの、嫌ぁよ」「…一宮さま、そうは言いましても、今の世の中、やはり殿方は決まった方の他に通う女君の一人や二人世話できる程の甲斐性が欲しいもの。それが今の道理で」 女房の一人が口を挟む。「お黙りなさい」 ぴしゃりと一宮ははねつける。「道理などどうでもいいわ。他のどの殿方がどうでも、私は嫌なの。私には私だけの人で居て欲しいわ」「一宮…」「そうでなきゃ、それが好きなひとであっても嫌よ」 今宮は一宮の肩を抱くと、ぽんぽん、と優しく叩く。「一宮は大丈夫よ。…さあ、仲頼さまよ。ええと、宇佐の使の勅命を受けられたでしょ。その時のね」「ええ」「―――宇佐の宮まで行かないうちに、石清水八幡があなたに会うことを叶えて下さらなければ、私はいっそう神を恨むでしょう」「やっぱり一本気ね。あら、これは誰かしら」 ひょい、と一宮は走り書きの様な歌を見つける。「…何処かで見た様な手蹟ね… ―――苦しい恋のために涙が堰を切って落ちた、その川に身を投じて浮舟の様にあても無く焦がれることよ」 今宮はそれを受け取ると、眉を軽くひそめた。だがそれは一瞬だった。すぐににこやかな顔になる。「きっと誰かの文から歌だけ落ちたのよ。次は良佐さま」 見覚えはある。 だから一宮の目から遠ざけようと今宮は思ったのだ。