ほーるど・おん(28)第六章その3
夏が過ぎて、秋が来て、冬。 兄貴達の活動は順調のようだった。私は時々ライヴも見に行ったが、差し入れもすることが増えていた。それはお菓子のこともあるが、たいがいは作り置きの料理という奴である。タッパーに総菜やら酒のつまみになるようなものを詰めて、兄貴の部屋に届ける。 兄貴は料理ができない訳ではないが、あまり味にこだわる方ではないので、簡単なもの以上に上達はしないらしい。「一皿の御馳走」という本が確か実家の台所にはあったが、奴の場合は「一皿の料理」だ。 たとえばどんぶりもの。たとえば具だくさんのラーメン。まあそれはそれで悪くはないのだが、いかんせんやっぱり「食ってるだけ」という印象は否めない。 それに加えて、私はめぐみ君のことが気になっていたのだ。 結局彼もまた、兄貴のところへと転がり込んでいた。それもハコザキ君やのよりさんよりある意味タチが悪い。彼は専門学校に通っていたのだが、バンドに身を入れすぎて留年-休学というパターンになってしまったのだ。その上、そのために家から仕送りを止められて、そのために家賃が払えない、ということでやってきたのだ。 もしかして見かけによらず、強引なところがあるのかもしれない、と私は思いだしていた。 兄貴は、と言えば相変わらずのマイペースだった。おそらくめぐみ君の方が、突っ走っている感がある。当初は兄貴の方がずいぶんと時間を掛けて彼をヴォーカルとして口説いたらしいのだが、気が付くとこのざまだ。何かもう、彼の視線でもって、兄貴のことをどう思っているのか、見えてしまうくらいだ。見ていて痛々しくなってくる。 それでも長続きするとは、私は思っていなかったのだ。 冬の間、私は、と言えば、会社では相変わらずだった。日々の仕事は何事もなく過ぎているように見えるが、それでも私の中にはじわじわと変化が起こり始めていた。 あの上司は、と言えば、小さなミスで、私のことをじわりじわりといじめているように感じられる。こんなことが続くと、君が今までちゃんと作り上げてきた信用を落とすよ。もっともな意見だ。それはおそらく合っている。私がいつどんな状況でどんな気持ちでいてその結果ミスをしてしまおうが、そんなことは、会社において、仕事において何の意味もないことなのだ。そんなものだ。 労働の代価として、給料をもらっているのだから、労働になっていない部分は、責められる。そういうものだ。とっても正しい。 ただ正しいことを全て認められる程、私は大人ではない。身体も年齢も、社会的な位置としても、私はもうどうしようもなく、「大人」だ。それはどうあがいても変えようのない事実だ。 だからと言って、無くしたくない部分も、確かにあるのだ。 無くしてしまったほうが、ずっと楽になると判っているのに。だけど。「クリスマスは、どーすんの? ミサキさん」 十二月のある週末の午後、サラダが不意に問いかけた。私の部屋の方が暖かいから、と彼女は前にも増して入り浸っていた。「別に特に予定はないけど」「じゃあ何処かにごはんとかケーキとか食べに行こーよ」「彼氏はいいの?」「ずーっと居ないことくらい、知ってるくせに」 彼女は眉を寄せたが、口元は笑っていた。確かに。ずっとそんな話を聞いていない。「別に作らないって決めた訳じゃあないんだけど」 彼女はそれ以上は口をにごした。ただし、過去の彼氏達との友達づきあいはちゃんと続いているらしい。そのあたりが実に彼女なのだが。「何処がいいかなあ」 彼女が見てた雑誌をちら、と見る。案の定、「カップルで行くクリスマスのデートコース」みたいな特集のついた情報誌だった。私が買った訳ではないから、彼女の帆布バッグの中から取り出されたものだろう。「あそこのカフェはどうなの?」「あそこのカフェ?」「CUTPLATE」 ああ、とサラダは顔を上げた。「うーん、特にそんなクリスマス・メニューが出るとか聞いたことはないけどさあ」「でもあたしまだ夜に出かけたことないけど、あそこはごはんはどうなの?」「うーん。ランチはあたしも食べたことあるけど…一応夜も二時くらいまでやってるし…何かしらあるんだよねえ」「だったら近場だし、場所予約取って、そこでごはんしない? 確かケーキはあったし」「あー、そういえば、ケーキは美味しかった」「でしょ」 うんうん、とサラダはうなづく。そーだねそれがいい、と彼女は繰り返した。「あたしさ、こっちに出てきてからは、絶対にクリスマスはケーキを食べるんだ、って決めてるの」「? って、そうじゃあなかったの?」「全くそういう訳じゃないけど」 うーん、と彼女は首をひねる。「そんなこと、考えてる余裕が無かったし」 え?「クリスマスって、いいもんだねーって思ったのは、こっちに来てからだしさあ」 何かすごく、困ったことを聞いているような感じがしてきた。「そーなんだよね。何かクリスマスってさ、皆で騒いで、ばっかじゃねーの、と思うこともあるんだけど、そんな、宗教でも何でもないのにさ、皆浮かれてもいい日っていいよね。そういう日があるだけで、何か楽しくなるじゃん」 そうだね、と私はあいづちを打つ。「でもま、あたしには、ここに住めることだけで、じゅーぶん感謝したいと思うのよ。カミサマじゃなくても、何か、にさあ」「感謝」「だって、平和じゃない」 どう答えたら、いいのだろう。サラダも自分が振った言葉が意味を持ってしまっていたのに気付いて目を伏せた。「…でもさあ、ミサキさん、カフェでも何でも、小さい、自分の趣味だけで埋め尽くした店っていいよねー」 おやまたこの話題だ。最近気がつくと、私達はそんな話になっていた。「で、あんたとしては、小さくてもいいの? 小さいほうがいいの?」 私の口元からも笑みがこぼれる。話がそれて、安心したのは私の方かもしれない。「うーん、そりゃあある程度の大きさはあった方がいいけど、あんまり大きすぎると、あたしなんかじゃあ、しっちゃかめっちゃかになっちゃうじゃん。そーだね、テーブルはいいとこ、四人掛けが二つと、二人掛けが四つ」「あとは、カウンターで?」「雑貨とかも置いてさ。だったらそうなっちゃうよ」「雑貨置くなら、ちゃんとディスプレイするスペースは必要だよ」「無論そーだよ。だってそれはあたしの仕事だもん」 にっこりと彼女は笑った。どき、と心臓が跳ねる。それがその笑みのせいなのか、「仕事」というその言葉のせいなのかは判らなかった。