|
カテゴリ:スポ-ツ
何と、まだ56才の若さだったそうだ。 彼とは面識は無かったが、佐賀県多久市出身と聞いて、現役時代から何となく親近感を持って応援していた。 。 但し、彼はアマチュア時代は県内でもさほど注目された選手ではなかった。 多久工業高校卒業後、1970年に「テスト生」として当時の西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)に入団したのがプロ野球生活の始まりだった。 西鉄では活躍するチャンスに恵まれないまま、1976年(五月女豊・鈴木照雄との2対2の交換トレードで、片岡新之介と共に)阪神タイガースに移籍。 長い下積み時代を経て、ようやく俊足巧打を認められ、ついにレギュラーの座を獲得した。 1980年には、打率3割1分3厘で打率ベストテンの第5位に入る好成績を挙げている。 1983年、トレードで、横浜大洋ホエールズに移籍。 1985年には、高木豊、屋鋪要と共に「スーパーカー・トリオ」を結成。 3人で3桁盗塁をマークし、大暴れする。 (個人では通算169盗塁を記録。) 1986年には、プロ入り17年目で念願のオールスター初出場を果たしたが、4年後の1990年に惜しまれつつ現役を引退した。 多分、彼が最初に大きな注目を浴びたのは、「昭和の怪物」と呼ばれた江川卓投手に浴びせたプロ第一号ホームランを放った時だろう。 彼にとっては記念すべきプロ初ホームランだったが、江川投手にとってはプロ初登板でいきなり浴びた苦い第一号被ホームランとなった。 その後も江川投手に対しては妙に相性が良く、やがて「江川キラー」と呼ばれれるようになる。 現役の終わり頃、ベンチで控えに廻る機会が増えるようになってからも、彼の明るいキャラクターは常にチームを盛り上げ、ムードメーカーとしての彼の存在感が更に際立っていた。 決して大記録を残した選手ではなかったが、引退した後は、その明るい性格を買われて野球解説者に転身。 「プロ野球ニュース」をはじめ、多くのスポーツ番組で大活躍。 彼の笑顔が現役時代にも増してしばしばテレビで観られるようになった。 彼は試合前に取材をする度、プロ野球の後輩選手たち一人一人に笑顔で優しい言葉をかけ、励ますことを忘れ無かった。 一方、彼は故郷の佐賀県にも多大な功績を残している。 地元少年野球チームの指導や県の観光キャンペーンへの協力等、常に故郷・佐賀県への支援を惜しまなかったのだ。 先週末に行われた彼の葬儀の模様は、各局のスポーツニュース等でも度々放送されたが、会場には、現役選手やOB、監督を問わずプロ野球界の大物スターたちがズラリと顔を並べていた。 テレビ・カメラに映し出された屈強そうな男性たちの多くが涙で目を真っ赤にしていたのがとても印象的だった。 横浜でチームメートだった高木豊氏や後輩の「大魔神」佐々木らが泣くのを堪えながら追悼のことばを語っていた。 「男は、辛い時や悲しい時にこそ笑うんだ!」など、彼が残した言葉の一つ一つから、生前の彼の温かい人間性の素晴らしさが伝わって来て、感動せずにはいられなかった。 昨年、夏の甲子園大会で佐賀北高校が奇跡の逆転優勝を果たしたが、おそらく彼もこの試合を観ていたことだろう。 佐賀北高の優勝が決まった瞬間、子供のようにはしゃいで喜んでいる彼の笑顔が目に浮かぶようだ。 加藤さん天国で安らかにおやすみください。 今まで本当にお疲れさまでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[スポ-ツ] カテゴリの最新記事
初めまして、
ネットサーフィンから来ました。 宜しくお願い申し上げます。 私の父は、 加藤さんと同じ九州地方出身です。 加藤さんは、 フジテレビジョン「プロ野球ニュース」の シーズンオフ企画でおなじみになりました。 心より哀悼の意を表します。 (2023年12月24日 18時44分55秒) |
|