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南カリフォルニアの青い空

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2023.09.01
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嘘つき

 私は小学生の頃『うそつき』と呼ばれた期間がある。嘘は許されない家庭に育ち、本当の事を言っていたのにである。

 例えば「東郷平八郎は偉い海軍大将だった」という話がでると「親戚」と言い、「皇太后は」と言えば、「おばあさんの友達」、「坐漁荘は西園寺公望の別荘で普通の人は入れないんだよ」と誰かが言えば、「行った事ある」というたぐいで、疎開先の大人達から「ヒロコちゃん、嘘つくと閻魔さんに舌をとられるよ。」とたしなめられたのだった。

 無理もない、母と祖母は手に持てるだけのもので疎開したから、私はつぎはぎだらけの服を着ていたし、すりきれた下駄か草履などを履いて遊び、お風呂も週に数回くらいしか入られなかったから浮浪児みたいだったのであろう。そんな子が東郷家の親戚である筈はないと思われても仕方がなかったが、父方の祖父は海軍少将で平八郎の従兄弟であった。

 大人達が「嘘つき」呼ばわりした為に子供達まで「ヒロコちゃんは嘘つき」と呼びだしたから、以後黙っているようになり、還暦近くまで家系に関しては口を閉じていた。だが余命いくばくかになった今、世の移り変わりという歴史の一部として書き残していこうと思うようになった。

 実はこの数週間、昔読んだ芹沢光治良の『人間の運命』という14巻に渡る大作を50年振りに読み直したのだが、明治から昭和の話で主な舞台が静岡県で、第一巻から沼津の御用邸、興津の坐漁荘など子供時代の懐かしい地名や人名が出て来た為に「嘘つきヒロコ事件」を思い出したのである。

 疎開し始めは、親戚や知り合いを頼りに放浪し、どこでも食糧難だったから一か所に長居はできず、やっと祖母の学友の一人と連絡がとれ「気候が温暖で、海の幸山の幸にめぐまれておりますから是非疎開なさったらいかがでしょう。」と勧められたのが興津という漁村で、私はそこで中学まで育った。その興津を紹介してくれたのが、西園寺公望の奥様で、祖母の学友の元徳川さんであった。私は華族であったこの母方の祖母に育てられた。

 当時2,3歳だったが、祖母に手を引かれてその坐漁荘に行った日がとてもよいお天気だった事を覚えている。西園寺公はもうこの世にいなかったが、坐漁荘はそのまま残っており特別許可を得て見学できるようになっていた。地元の人々は畏れ多いと言って誰も行かなかった。私達はミセス西園寺じきじきのご案内で別荘を見学、と言っても祖母は学友との積もる話に忙しく、幼児の私には面白くなかったから、手を振りきって勝手にあちこちを見て回ったのだが、ひとつ印象に残ったのはトイレであった。大きな畳の部屋だと思って入ったら、そこがトイレでびっくりした。棚には花がかざってあり、お茶室のようであった。 
 

 帰り際に「ヒロコちゃまにこれを差し上げましょ」とミセスから綺麗な和紙の『おひねり』をいただき、開けてみたら色とりどりの金平糖と落雁がはいっていて、最高にうれしかった。戦争中で一般人の口には入らなかったものであった。帰宅して母に見せたら、「うわ~きれい!懐かしい!こんな物資難でも、有るところには、あるのね。」とため息をついていた。砂糖なども手に入らない時代であった。

 戦争が終わっても、大きな都市は食糧難であったが、興津は漁村だったので漁師は捕れる季節になるとほぼ毎日のように漁にでかけ、岸に戻って網を引くとき、私はバケツをもって網からもれて浅瀬にピチピチ跳ねてる小魚をいっぱい拾って来たので、我が家はいつも新鮮な魚を食べていた。又、漁師のおかみさん達が煮干し作りに窓のスクリーンみたいなものに蒸した鰯をのせ浜辺にズラーッと50メートル位並べて干し、夕方倉庫にいれ、又翌朝だして干す作業を繰りかえすのだが、それを集めて倉庫に入れた後かならず沢山の煮干しが落ちていたので、それも拾ってスナックにしていた。カルシュームたっぷりであったから、今でも歯や骨が丈夫な理由はそこにあると思う。鰯の煮干しなど地元の子供達は見向きもしなかったから、競争相手もいなかった。
 

 又、静岡はミカンで有名な県でミカン畑には沢山のミカンが落ちていたので、それも拾ってきたし、ウラジロといって草餅に入れるシダ、つくし、ぜんまい、なども集めて来た。我が家の日本庭園も畑と化し、蕗、トマト、茄子、きゅうりなども自宅栽培をし、東京や横浜、大阪から親戚がきてはリュックに沢山つめて持ち帰った。

「前庭には二羽、裏庭には二羽のにわとりがいる」という早口言葉ではないが、我が家でも鶏を四羽飼っていたので卵もあった。又、容器をもってミルクやクリームを農家に買いに行くのは私のしごとで、母は七輪の上にのせる小さなかまぼこ型の簡易オーブンで、サッカリンという人口甘味料を使ってクッキーやケーキを焼いて漁村の人々をびっくりさせていたが、「売らせてください」という店もでてきて、母はにわかベーカリーをやったこともある。生きるためには色々な事をやった時代であった。

 時と共に「嘘つき」から「ヒロコちゃんちは、元かぞくさんだってねぇ」という風に変わっていったが、その意味が分からず「誰のうちでも家族じゃん」と私はぶっきらぼうに答え、「おばあさんが、沼津の御用邸にいったんだってねぇ」とか、「天皇さんにもあったことあるんだってね」とかきかれても無視し続けた。もう嘘つき呼ばれをされるのは、まっぴらだったからである。

 

 *

 
*右から二番目が、私を育ててくれた祖母です。父は戦地だったし、母は働いていたからです。祖母の学友には、勝(勝海舟の娘)徳川、伊達、西郷、松平、伏見、九条、明治維新に活躍した人々の娘とか、公家の娘達が多くいました。​





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最終更新日  2023.09.01 12:22:52
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Re:Orange Network 9月号・嘘つき(09/01)   銀線名人ぬかしんぼ さん
色々素晴しいですね。


イワシやミカンに不自由しなかったとかも素晴らしい。 (2023.09.04 10:53:14)

Re[1]:Orange Network 9月号・嘘つき(09/01)   Hirokochan さん
銀線名人ぬかしんぼさんへ

気が付いたら、こういう家庭にそだってたのですが、
私の人生は、とっても貧乏からはじまったので、
私は何にでも感謝できて幸せです。
反対に、祖母や母は、大富豪からホームレスになった
わけで、たいへん苦労をしたのだと
気の毒に思ってます。


(2023.09.17 12:45:38)

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