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南カリフォルニアの青い空

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2023.10.02
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語学

 明治維新は根本から社会をひっくり返して国造りをした驚くべき時代で、カーストシステムを無くし、侍もちょんまげをやめて刀をすてた。約260年続いた鎖国を廃止し「これからの日本は若者をどんどん世界に送り出し、様々な新しい知識をとりいれようではないか」という事で、日本政府は次々に優秀な人材を海外に官費留学させた。そういう中に、津田梅子がいた。明治の男は気骨があったというが、『遠慮なく言わせていただくと』梅子のように女性も気骨はあった。しかも6歳であった。

 著者こだま・ひろこさんから直々にいただいた『小説・津田梅子』(新潮社)を最近読んだのだが、全く違う文化の中でスポンジのように英語を吸い込みアメリカの社会に溶け込んでいった梅子のその勇気と努力と忍耐力は、同じ日本人だと言う事が誇らしくなるような行動であった。英語の吸収力の速さは梅子が6歳であった事もあるが、まだ母親のふところが恋しい年頃で留学させた親も親だが、怖気づかなかった梅子の態度は、良くも悪くも昔からの武家の躾(しつけ)であったと思う。

 ネイティブのアメリカ人と同じ発音で、帰国後日本女性の英語教育、特に教師を育てる事に力を入れたのだが、梅子は祖母の英語の先生でもあった。会話が主で、よく寸劇をし発音にはきびしかったおかげで、祖母の発音も可なりよかった。

「英語の時間になると、皇后陛下(明治)が毎回おいでになり、教室の前にお座りになって、だまって授業参観をなさり終わると生徒全員にお菓子をくださるので、皆それがとっても楽しみだった」と言っていた。

 官費留学に選ばれなくても私費留学した者もかなりいて、祖母の兄弟も一人は米国のカルテックス、一人はスコットランドのグラスゴー大学を卒業し日本のカメラの技術や、計量器の技術開発に一役かったという。

 又、明治時代の海軍は外国語養成に力をいれ、ドイツ語、英語、フランス語とロシア語を優秀な士官の中から抜擢して学ばせたのだが、海軍大佐であった母方の祖父はロシア語を任命させられ流暢に話しRadio officerと言って無線でロシアと通信をする係だったから、日露戦争では大活躍した筈である。「先生の名前はトドロウィッチと言うロシア人で、よく我が家にもご招待しましたよ」と祖母から聞いた。

 更に昭和の始めに、叔母はドイツに留学する事になりドイツ語はドイツ人の家庭教師に習った。1935年からドイツで暮らしたのだが、あいにく第二次世界大戦のおぜん立てがはじまり、本物のヒットラーの行進などを見た直後に日本大使館からの「即帰国せよ」というお達しで、やむなく帰国。石井漠や伊藤道郎などの時代に日本にモダンバレーを広げる努力をした一人であったが、戦争と離婚でその夢は消えた。後に一緒に留学していた前夫が復活させ、彼の死後の今でも津田信敏舞踊研究所として続いている。

 叔母は学習院で英語を習ったのでドイツから帰国後、英語に切り替えたときも問題なく短期間で流暢にはなせるようになり、戦後は生きる為に進駐軍の通訳等をして家族の生活をたすけていた。後にアメリカの市民権をとり、カリフォルニアの銀行で働いて貯めたお金で、戦争でホームレスになった母親(私の祖母)に家を買ったのだった。つまり語学が助けになっている。その息子も青山学院英文科を卒業して英語を主に使う外資系の会社に入社しリタイアするまで務めた。

 語学の助けと言えば、明治女の気骨の話に戻るが、祖母のそれは見事なものであった。姫君と言われて育ち大富豪の祖父と結婚して何不自由のない暮しをしていたにもかかわらず、戦争で未亡人になったと同時に数十軒あった不動産も全焼、ほぼ無一文になり着の身着のままで疎開をしたわけだが泣き言を一度も聞いたことがない。それどころか、戦後赤ん坊の子守りと交換に二畳の部屋を無料で貸すという若い夫婦の条件を受け入れ、疎開先から従兄をつれて二人で東京に戻ってきた。「私の育った家のはばかり(トイレ)より小さな部屋」に住み、子守りをしながら浴衣や着物を縫ったり、お習字、和歌、鼓、謡曲などを教え、英語が出来るからとパートで米軍士官の犬のお守りをしにいったこともある。

 祖母の影響はつよく、「芸は身を助くというのを覚えておきなさい」と言われた私は、カリフォルニアで半世紀くらいピアノを教えて生活費の足しにし、「人間は死ぬまで勉強を続けるものです」と言われていたので、経済的にも時間的にも余裕のできた49歳で大学に行き始めた。忘れかけていた日本語をきちんと習って日本語教師になろうと決心しカリフォルニア大学の学生となり、日本文学とPedagogy(教育学) を勉強して53歳で地元高校の日本語教師となった。更に妹の娘も日本で米国の会社に長年勤務し、現在はシカゴの本社で働いている。このように私の家系は代々『語学』に助けられた。今アメリカでこれをお読みになってるあなたならお分かりになるだろうが、外国語は自身の世界を広め同時に人類をつなげる大切なツールの一つになっていると思う。

 追伸:『遠慮なく言わせて頂きます』を書き始めて三年目になりますが、私の回想録であって読者の皆様には面白くもない可能性があるので続けるか否か迷っています。ご意見をお聞かせくださると大変ありがたいです。弘子(8pkaigo@gmail.com

 

 

 





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最終更新日  2023.10.02 06:36:51
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