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カテゴリ:映画
監督が女優に懸想すると、たいがいが作品の鮮度を落とすことになるのはフォン・スタンバーグからロッセリーニ、ヒッチコックまで例証のあること、少し心配もいたしたがリチャード・クワイン「逢う時はいつも他人」('60)、その懸想のバランスがほど良かったか、上質のよろめきドラマとなった。 直訳に近いタイトルにしても、これはなかなかの翻訳で、逢う時はいつも他人の視線を気にして逢わなければならず、仕方なく見知りの集団の中で逢えば他人のよそよそしさも演じなければならず、ことほど不倫はオープンにはしがたい苦衷の恋なのではある。 されど偲ぶからこそ燃焼度も高いわけで、妻にいかなる落ち度がなくとも不倫は無くならず、その三角関係に誰も勝利しないのがまたおとなの愛憎でもある。このバランスの節度がないのが現代であるとするなら、この作品もなかなか滋味あふれるあじわひ、とは言えるのである。 キム・ノヴァクの代表作たる「めまい」('58)は、そのセーター姿の魅惑が圧倒的だったけれども、ここにもセーター姿の彼女がいて、まさしく肢体の旬と言うべき姿をとどめている。 妻役のバーバラ・ラッシュも気丈な美しさを見せ、隣組のウォルター・マッソーに不埒な脅迫を受けるところなど、まことヴィヴィッドな悔し涙である。 しかしこの作品の決着は、建築家であるカーク・ダグラスがハワイの街造りのために、同じ町に住み続けることを避け、偶然の出会いすら生まれる素地がないところで一応の決着を見せるのだけれども、焼けぼっくいはいつも一触即発、再燃の下地は用意されているわけだから、法律に守られる愛より持続力は明らかにしぶとくはあるのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 17, 2007 02:55:17 AM
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