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[全341件]
最近、毎年この時期になると、荒れる成人式の様子をテレビなどで見かけるようになってしまっている気がする。 すべての新成人がそうではないとは思いつつ、どこか成人することを何か履き違えているように見えるその光景にはいつも唖然とさせられる。今年もそんな光景がテレビから流されてくるのだろうか・・・。 成人式を迎えるとき、彼らはどう思っているのだろうか。「大人になった」ということついて、なにか思うことはあるのだろうか。そしてその実感についてはどうなのだろうか。 私はといえば、どちらかといえば「大人になった」というより「大人になってしまった」というような感覚の方がが強い。別にずっと子供のままでいたかったとか思っているわけじゃないし、そういうニュアンスで「なってしまった」などと思っているわけじゃない。 心が大人になりきる前に、年齢だけ大人になってしまった…という、そんな感覚だ。「大人になりそこなった」とでも言った方が近いのかもしれないが。 そのせいだろうか、成人の日の当日になっても、新成人として慣れないスーツで式の会場に向かっても、会場でお話を拝聴しいても、いまいちピンときてなかったように思える。おそらく高校卒業ぐらいの時とさほど変わらない意識で、まだまだ大人気ない私がそこに座っていたのだろう。 ただ、年齢的に十分大人の人でも、子供っぽい、大人気ない所を持つ人はいると思う。実際、いままでいろいろな「大人」の人に接しているけれど、自身のことを棚上げして、「大人気ない」などと感じてしまったことも結構ある。反対に、私よりもずいぶん若い人で「しっかりしているな」などと思ったこともある。「いいかげんだな」と感じることもそれなりにあったけど。 最も、いつも「大人」かどうかで周りの人を見ているわけじゃないし、私自身の人の見方が少々穿っているのかもしれない。あるいは「若い人のなら未熟でもしかたないが、年長者にはせめて年相応には成熟していてほしい」とかいう意識があって、年長者に対しての目が厳しいのかもしれない。 そもそも、私はどんなことを指して「大人になる」と考えているのか。きちんと働いて、人に迷惑をかけず、自立して生活できる人…といったあたりだろうか。検索したときにみつけた項目には「自分の行動に責任を持つ」とありました。それもあるかな。 ただ、いろいろ考えてみると、そこに一種の理想像みたいなものをはめ込んでいるようにも思える。私はまだ、それには程遠いと感じている。これではまだ大人になれてないと感じるのも無理はないだろう。 あと、こういう考え方だと、「年齢」という部分はさほど重視していないということになりそうだ。 なら、どんなときに「大人気ない」、「子供っぽい」と感じるか。それは、自分本位しか思えない行動そのものや、それによって周囲を振り回している時…だと私は思う。 荒れる成人式の様子に見られるものなんかは、まさにその手の行動のように思える。大人の仲間入りをした彼らの最初の行動から感じるものが「大人気ない」というのは、ある種の滑稽さがあるのかもしれないが、笑える類のものでもない様に私には思える。 同時に、そこに未だに大人になりきれていない自分自身のいたらなさ、大人気なさが投影されているようにも感じられるため、上から目線で突き放して偉そうなことを言う気にもなれもなれなくて、なんとなく気分が沈んでしまったりする。 もう年齢的には十分すぎるほどに大人側なのだが、新成人の側に自分自身を見てしまうようでは、やっぱり、私にはまだまだ、大人なりきれていないということなのだろうか・・。多分そうなんだろうな・・・。
分からないのは僕が人の価値観を認められないから【黄昏時の街の日記さま】 おそらく、誤読だと思うのだけど、対象の面白さを理解でないことを価値観の否認のように感じてしまった部分があり、そこに違和感を抱いた。果たしてそうなのだろうか・・・と。 例え、その対象の面白さが理解できなくても、その対象を面白いと感じる人がいるということは理解できるのではないだろうか。 個人的には好みや相性の問題だと思うので、少なくても、「Aはつまらない」がそのまま「Aを面白がる人の気が知れない」にはならないだろうし、価値を認められなくても、それが価値観を否定することにはならないと思う。 ただ、私自身、その対象の価値を否定された時に“その対象に価値があると感じること自体まで”否定されたように感じてしまうことが時々あるので、頭で理解しているかどうかはともかく、感情面では、理解できていないのかもしれない。 それに、私は一度「つまらない」と認定してしまうと、その後、誰かに薦められても、積極的に手を出そうとしたり、面白さを理解しようとしたりすることがほとんど無いので、実は認めているフリをしているだけなのかもしれないと、思わなくもないのだけど。
私の場合は,人と比べちゃうとダメなんだ。 【光集いし木蔭さま】 私もそうだな。 評価に対しては、私は「最終的に評価を下すのは読んだ人たちだから」とよく書いたりしていると思うけど、そこには自己評価をすることから逃げているっていう部分もあるような気がする。 自分で自分の記事を評価しだすとどうしても卑屈になってしまうってわかっているからなのかもしれない。 特に比較をしだしてしまうともうダメ、どうしようもない。 「自分にはできない」、「こんなにすごい人たちがいるのなら、あえて、自分が書く必要は無いんじゃないのか」と何度思ったことか。 ただ、結局は「自分がどうするのか、どうしたいのか」がポイントだと思うから、他の人がすごいとかいうのは、関係ないような気もする。 自分にとって、なんらかの価値が見出せれば、それでいいいのではないかとも思うし。 まあ、とはいっても、そこまで冷静に自分と他人を切り離せるわけでもないし、どうしてもモチベーションが上がらない時や、不安になるときはあるので、時々、そういう時の自分のための記事を書いていたりすることがあったりする。 正直どの程度うまくいっているのかどうかは微妙なのだけど、それでもすこしでも自分の支えになればいいかな・・・と、思いつつ。
承認の問題 承認関連の話題を続けます 共に【あなたの正義は誰を殺しますかさま】 自分も承認不足というか、承認そのものを欲求しているという部分はあると思う。少なくても、私は自身だけでは自分の全てを承認しきることはできていない。 とはいっても、別に常に渇望しているわけでもではないのだけども、何かの拍子に、強い承認欲求が浮き上がってくることがある。特に落ち込んだりして精神的に余裕が無いときなどはその傾向がより顕著になる。 おそらく、私自身の奥底に半ば強迫観念に近い承認に対する欲求があるのだろう。普段は「あえて考えない」ということで見ない振りをしているにすぎないのだと思う。 理由や根拠がなくても、無条件に自身を承認できればいいと思う。だが、自分にはそれができない。 このあたり、自信においても同じ状況が続いているな。自信を持つために、自分を肯定する根拠が必要なのと同様に、承認に足りうる根拠というのが、必要と感じている部分が私にはあるようだ。 いや、友人関係など、形としての承認が得られなくても、根拠がなくても、無条件に自分がその人たちからの承認を信じられる集団、場所は持っている。ただ、貪欲なのか、それだけでは不十分と感じている部分があるようだ。 もしかしたら自分が所属している全ての集団において、承認されることをもとめているのかもしれない。 ただ、承認に足りうる根拠を他者からの承認から得るる場合、結局は自身の基準を切り抜ける必要が出てくるように思う。 求めている他者が承認したとしても、その承認そのものを受け取った自身が承認にたりうる根拠と認めなければ、結局は承認欲求を満たすことができないのではないのだろうか・・・。
「ゲーマーの後悔」は終わらない【WIRED VISION NEWSさま】 これ、良くあるな・・・。 もっとも、私の場合、その対象はゲームよりも、ネット、それも特にyoutubeなどの動画サイトに対してかだったりするのだが。 ただ、いざ思いきって一日ネット断ちをしてみても、その分が、ゲームなり、テレビなり、マンガなりに流れるだけのことが多い気がするので、あまり状況は変わってないんじゃないだろうか。 結局、一日の最後にその手の「後悔」をしていることもあるし。 どうも、私は余暇や趣味の時間にまである種の効率とか、副次的な目的、成果などを求めている部分があるようでそれが、この手の「後悔」を生む一因になってしまっているように思う。 あるいは、ただの貧乏性か。 あとはやっぱり、そのことに費やされる時間の長さが問題なのかな。 それでも別に必ずしも惰性でやっているわけでもないのに、無駄に感じることがあるってことは、それだけその趣味を軽く見てしまっているってことなのかもしれない。 あるいは、ゲームなどのオタク趣味全般に感じてしまう、妙な後ろめたさがそう思わせるのかもしれない。 別に趣味や遊びに高尚や低俗もなくて、そのことは自分でもよくわかっているはずなのにね。
いつもと言うわけでもないのだが、褒められたときにみょうにむずがゆくなるような違和感をおぼえて、素直に喜べないことがある。 自分が普段、何気なくこなしていることだとそう感じるのかな。と思っていたのだが、苦戦を強いられたときでも感じることはあるようなので、作業をこなす時の苦労の度合いは関連しないみたいだ。 となると、やっぱり受け取る私の方の気の持ちようの問題なのか・・・。場合によっては「馬鹿にされているんじゃないのか?」などと、特に根拠も無くネガティブに受け取ったりすることもあるし。 かといって、別に、褒められること自体が苦手とかそういうことはないと思う。 承認願望はむしろ強い方ではないかとさえ感じているから、「認めてもらいたい」とか「褒めてもらいたい」っていう思いもとうぜんあるはずなんだけど、いざ褒められると、なんかしっくりこなくて、違和感をそこに感じてしまう。 なんというか、「自分はそこまでのことをしていない」って思ってしまうんですよね。 もしかしたら、それが違和感の正体なのかもしれないな。 となると、まず最初に自分自身で、その何かにたいして、「俺は(賞賛に値するような)すごい事をした」って思えないとだめなのかもしれない。 でもそう思えることってなかなか無かったりするし、自分が「頑張っている」とか、思い込んでいることに限って、あまり賞賛などを受けることがないように思える。 まあ、「頑張っている」っていってもあくまで主観だし、見る側の人にとってそれがどう映るかとか、それが評価とか賞賛に結びつくかっていうのとはまた違うってのもあると思うけど・・・。
職場にいる嫌いな奴に対する感情が、また「どちらでもない」の方に変わってきている。 嫌いなやつとはいっても、1から10まで嫌いってわけでもなくて、それどころか趣味とかでは話があうところもある。だから、状況しだいでは楽しく会話できてしまうことさえあって、おそらくそのせいでこういった感情の揺らぎがおきているのだろう。 なので、もしかしたら、出会いかたや関わり方が違っていたら、あるいは、もっと親しい仲になれたのだろうか・・・などとと妄想したこともある。 しかし、その人には嫌いになるのに十分過ぎる、ものすごく癪に障ってムカついてどうしようもない部分があるので、やっぱり、どう転んでもどこかで「嫌い」になっていくのかもしれない。 なまじそういう人と友人のような関係になってしまうと、縁を切るのも一苦労だろうし、なんかこじらしてしまいそうでもあるので、そうならなくて良かったのかもしれない。 しかし、その人に出会うまで、私は一度きまった「好き」とか「嫌い」といった感情が、時や状況で変化することはまずなかったと思う。「嫌い」な奴は頭のてっぺんから足の先まで嫌いだと認識していたような気がするから、それが変化するなんて、思ってもいなかっただろう。 まして、嫌いな奴とでも、状況しだいでは、楽しく会話できることがあるなんて、とてもじゃないが信じられたものではなかっただろうな・・・。 そういう意味ではその人との出会いは貴重ともいえる。こんな形でそれを知る機会を得たくはなかったけど・・・。 ただ、いまだに「好き」と「嫌い」が逆転するということに関しては、にわかに信じがたい部分があるんだけど。私の場合、こういうことは実際に自分の身に起こってみないと、完全には信じられないのかもしれないな。 |一覧| |
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