さらにその奥に
先日、私の状態をきいてくださった方が「神も仏もあるものか・・」と言ってくださった。その言葉を有り難くお聞きしながら心配してくださるお気持ちに深く感謝しながらそれでも、いや、おそらく神や仏はいるのだと。今の自分の置かれている状態は誠に宙ぶらりん、再発しているのか、それともマーカー値の上昇は一時的なものに過ぎないのかいまだ病院側にも分からない状況。黒とはっきり分かってしまうのも辛いだろうけれど今のこのグレーゾーンも、非常にしんどい。食事は依然として摂りづらく朝食、昼食は頂くけれど、夕食にいたっては野菜ジュースのみ。長時間歩くことは出来ないし、家の階段さえ辛いものがある。・・・こんな状況ではあるけれどそれでも 自分の身に起こる全てのことはことごとく功徳である、と考えている。本来ならばもっと辛い状況だったかもしれない。耐えられなかったかもしれない。けれど、僅かながら「手術」という希望もある。重く受けるべき自身の宿業を、軽く受けているのだと思えば感謝もわいてくる。1年前、執刀医よりこの病気について聞かされた時「どうして自分が・・・?」と思った。まるで目に見えない電車か何か、自分の前にすぅっと止まり、「災い」という名の荷物をどさっと置いて行かれたような・・・。そんな気持ちだった。何で私の前にそれを置いていくかなあ・・・と。要らないのに、と思った。けれど、その忌み嫌うべき荷物も外からもたらされたものではなくもともと自分の内にひそんでいた宿業なのだ、と思い至った。自分にとって最も適した時期に、適した形で宿業が出てきたのだと。この宿業を嘆き悲しむな、と法華経では説いている。何のために自分がこの病気で苦しむのか。同じ病気の人の心を理屈抜きに理解するためのものでありともに闘っていくためのものである、と説く。・・・・今さらながら 法華経の行き詰まりの無さに驚く。どこまで追究してもその奥に、そして さらにその奥にひろやかな世界が広がっている。