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テーマ:ユル旅行記(18)
カテゴリ:ユル旅行記
続きから。
これ以後は楽しいことじゃあないんだよ。あるのは、病気と、醜態と、嫌悪と、憂鬱と、それだけです。家族の実態が少しでも描ければいいな、と思います。言うまでもなく特殊な家族です。では。 前にも簡単に触れたのだが親父はB型肝炎が慢性化して肝硬変となり、近年では肝性脳症という症状を引き起こすようになっていた。 肝性脳症というのは肝臓の機能低下による意識障害である。肝硬変が進行した場合や劇症肝炎などの重篤な肝障害によって引き起こされる。血中の毒素が高まり脳の意識障害を起こすのが特徴である。 自分のために症状をまとめておこう。昏睡度によって通常以下の5段階に分けられるそうだ。 I:睡眠リズムの逆転、多幸感又は抑うつ状態、だらながない、或いは周囲に対する無関心など。 II:指南力の障害(時・場所を間違える)。物を取り違える。異常行動を起こす(例:お金をまく、化粧品をゴミ箱に捨てるなど)。 傾眠状態(呼びかけにより開眼し会話できる)。無礼な行動があったりするがまだ医師の指示に従う態度を見せる。 III:嗜眠状態(ほとんど眠っている)になる。興奮状態又はせん妄状態(意識が混濁して錯覚したり興奮や錯乱してまとまりのない行動をする)を伴い反抗的な態度を見せたり暴れたりする。外的刺激に対しては反応して目を覚ます。医師の指示に従わない。 IV:完全に意識を消失する(昏睡状態)が、痛みに対しては反応する。 V:すべての刺激に対して反応しなくなる(深昏睡状態)。 これらを踏まえておく。実は前回著しい肝性脳症を発症したのが昨年5月のことだった。 この時は全裸になり外に出たり冷たい風呂に入ろうとしたり、という症状があったことから考えるとレベル3まで進行したと思われ、手に負えず救急車を呼んだ。 それでは、続きを。 明けて9日。札幌二日目。この日私は午前中、兄貴の入会している市民のバドミントンサークルの練習に参加させてもらうことになっていた。私は中学3年間をバドミントン部に所属していたのだ。 母親も参加したいとのことで両親を迎えに行き、兄貴の一家4人と千葉から行った3人を加えて総勢7人で区民センターとやらに行く。 兄貴の子供2人と親父は図書館で時間を潰している。この時はまだ親父は若干おかしな言動であるものの、指示には従うし行動も共にすることができた。 だが、誰が見ても元気がないことは明らかだった。それでもまだ危篤状態には見えなかったので自分達の行動を優先させていた。恐らく上記のレベル1状態からレベル2へと移りかけていたようだ。 2時間半の練習が終わり、みんなで昼食を食べに行くことにした。この時もショッピングモールの中をゆっくりではあるが自力で歩き、そして一緒に、かなりゆっくりとラーメンを完食した。 後で聞いたところ、この時のことは記憶にないらしい。 この日の夕食は両親が宿泊しているコズエねーさんのマンションでコズエねーさんの兄一家も呼び皆で楽しい晩餐会を予定していた。 私は兄の家族と共に17時頃、コズエねーさんのマンションを訪れた。親父の状態は、この時既に放っておくと椅子に座ったまま眠りこける状態だった。 だが、肝性脳症の危険性をこの時はまだ誰も気付いていなかった。元気な時の親父は未だにうざったくからんできたりするので、みんな静かで良いくらいにしか思わなかったのだと思う。 私もコズエねーさんの飼っていらっしゃるお犬様と遊んだり兄貴の子供2人と無邪気にも遊んでいた。そしてついに夕食の時間となり、親父はその場の注意を集めることとなった。 親父は肝炎の他に糖尿やら高血圧やらを患っており食事前に幾つか薬を飲んでいる。この旅にも当然薬を持ってきていた。 だが、その薬がどれも違うと言ってテーブルに並べては端に置き直し、ということを繰り返して一向に飲もうとしない。更に硬い割り箸を細かく折ったり、箸袋の紙を食べたりし始めた。 この状態がおよそ2時間以上も続いた。さすがにその場の空気が凍り始めこのままではまずいということから、親父の姉さんに飲ませているという睡眠導入剤をどうにか飲ませ、半分強制的に寝室に連れて行き寝かせた。 今の私ならこの状態がレベル3であることが分かるのだが、この時はまだ本当に全然知識がなかった。 従ってこの状態なら絶対に救急車を呼ぶべきだったと思うが、寝かせたことで安堵して兄の家族と一緒に北大の校内を縦断して徒歩約20分の兄のマンションへと皆で楽しく歩いて戻った。明日様子を見て病院に連れて行こうということになっていた・・・・・ こうして一晩過ぎて親父の症状はレベル4へと移行していた。明けて10日。母から朝8時頃電話があり、昨晩親父が失禁したと報告を受けた。そしてずっと眠ったまま意識が戻らず呼びかけても起きないという。 昏睡状態。それでもまだその内起きて意識を取り戻すと期待していた。親父の姉の掛かりつけの医者に連絡は取ってくれていて、病院に連れて行くタイミングを見計らっていた。 昨夜兄のマンションに戻ってから深夜2時過ぎまで酒を飲みながら親父のこと、母のこと、我々の育った環境のこと、また、今後について、兄と奥さんと私の3人で真面目に語り合っていたのだ。 よって皆が起きて来たのは9時半頃。昨夜のように兄弟で真面目な話し合いができたのは親父の病気のお陰と言えば都合が良過ぎるのだが、有意義であったことは間違いない。 しかしもう一度現実と向き合わねばならない時が迫っていた。 10時半過ぎ。ようやく朝食を済ませ全員でコズエねーさんのマンションへ。親父はまだ昏睡状態だと言う。医者と連絡を取って午後に病院へ連れて行くことにした。何度も失禁して布団を汚した。 そんな親父がオムツをつけられる様を見下ろしながら思っていた・・・・このだらしない人が我々子供達をシツケの名の下に恫喝したり暴力を振るったり虐待した人なのだ。 今は昏睡状態のただ憐れな老人であるが故に、それを目の当りにすると過去に受けた仕打ちの記憶が溢れ出て来て、なんとも許し難いという気持ちと良心や道徳心との静かな葛藤の時間が続く。 勿論これは私だけの経験ではなく、我々家族は全員自分でも驚くような自らの心の汚れと向き合っていたのではないだろうか。 こうして静かで気だるい時間が過ぎ、遅めの昼食を摂り終えると14時になっていた。早いところ病院に連れて行き事態を打開したかった。 なんとか車椅子に乗せて小さな個人病院へ着くと救急扱いですぐに病室に運ばれベッドに横たえられた。 どれくらいの時間が流れたのか。小さな待合室では誰も話すことなく、我々も押し黙って、ただ時間が過ぎて状況が変化するのを待っていた。 日曜日の午後、この小さな個人病院には風邪と思われる症状で来院する人達が入って来ては沈鬱な表情でベンチに座って待ち、診察を終え薬を貰うと少し明るい顔で帰って行く。そんなことが何度も繰り返され、いつの間にか弱い日射しの太陽が傾いていた。 ようやくベッドに付き添っていた母親が出てきてこれから点滴を打つから終わるのは17時過ぎになると告げる。時計は16時過ぎ。私と兄は一旦戻り出直すことにした。 1時間後、母からメールがあり終わったから迎えに来てくれと書いてあった。兄と再びすぐに向かう。 意識はまだ戻らないが点滴を2000ccも打って最善の処置はしたので今日はこのまま寝かせて明日、大きい病院の救急に連れて行くようにと看護師さんに言われた。 心なしか昏睡状態の親父の顔から険しさが消えたようだ。それを見て私は心の中でただ一言呟いた。 「しっかり生きろよ」 ホンの少し、子供を励ます親のような気持ちになれた気がした。 続く。 「ねはんの里」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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