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テーマ:もう一つのお遍路日記(91)
カテゴリ:もう一つのお遍路日記
2008年9月2日。お遍路14日目。
昼過ぎ。32番札所禅師峰寺を打ち終えて82mの丘を一気に駆け下りた。山道のためとさっきもらったはっさくのお陰で元気だった。 マップ。 下り終えると古い漁師町の中を抜けていく。この辺りの砂浜は龍馬の時代、1954年の安政南海地震における津波で消滅したらしい。 因みに1946年12月21日の昭和南海地震ではここ四万十市は地震の二次災害である火災によって街の8割が焼失した。 東海・南海地、東南海連動型地震の全てが同時に起こる100年周期を今迎えている。100-150年周期でここ600年は確実に起きているのだ。 さて、次は50年以内に起こるとのことだけど、どうなるでしょうかね。 ある精神的な人達の説によると、地震は人間の怒りなど負の感情が関与しているのではないだろうか。とも言われている。 私はこの説を完全に信じている訳ではない。だが誰かの心の中で起きた怒りは外へと発散し、それを受信した誰かがまた次の誰かへと負のエネルギーを伝えていくのは事実である。 だとすれば、その誰かが地球全体、であるということも、もしかするとあり得るかも知れない。とは思う。 近年起きている世界的な自然災害が文明人一人一人のイライラによる犠牲であるとすれば・・・・・・ しかし、だ。負の感情も連鎖するけれど、また同様に逆のプラスの感情も連鎖するのではないか。これもまた真なりとするなら地球全体へ伝えられる個人によるプラスの影響もあるのかも知れない。 ならばそのプラスの連鎖の発端を自らが起こそうではないか。貧困諸国への募金をする前に。 土佐の小さな漁師町を抜けるビニールハウスが整然と並ぶ高知らしい施設園芸の農業団地へと出た。 もうこの頃にははっさくパワーはとうに消え、疲労と空腹と酷暑によって眩暈がしてきた。お腹も喉もカラカラ・・・・・・ 時刻は既に1時過ぎ。農業団地は次第に絶望感をもたらす、港湾らしいひらけた風景に変わってきた。 海沿いの遍路道は高知新港付近へと差し掛かっていた。遍路地図を見てもコンビニがだいぶ先にあった。 と、乾いたアスファルトの眩しい景色の中に、真新しいうどん屋らしい看板が目に入った。 迷わず入る。駐車場には昼過ぎだというのに8割方車が停まっている。繁盛店のようだ。 手動のドアを開けると、「いらっしゃいませ」 の声と同時に冷房のヒンヤリした空気が顔に当たった。 生きていた。そう思った。大袈裟か?たかが数キロの道のりだがここらの地理を知らない歩き遍路にとって精神的にはサハラ砂漠のど真ん中と変わりない。 30席はあるだろうか。結構広い店内に客はギッシリ。営業らしいネクタイ姿のサラリーマンから港湾の仕事関係だろうか、運ちゃんらしい人も多数。 隅のカウンター席に座りメニューを見て即決。 かき揚げぶっかけうどん(冷) 食い物なんてなんだっていい。氷が入った水をガブガブと飲んだ。有難いことに給水ポットを各テーブルに置いてくれていた。 3杯ほど水を飲んでからザックを背中から下ろしていないことに気付いた。自分の椅子の前に置いて額の汗をおしぼりで拭おうとすると頭全体が動いた。 菅笠も外していなかったのだ。 死にそうな顔の遍路が入ってきてもしかして緊急措置をとってくれたのか、うれしいことに冷しぶっかけうどんが数分で出てきた。 既にほとんどなくなってしまった給水ポットをニコニコしながらバイトの女の子が新しいのに代えてくれた。 冷しぶっかけうどん。 ここのうどん、手打ちしてるだけあってコシがあってとても美味しかった。かき揚げもサクサクでダシも旨い。昼ピーク過ぎても混雑してる訳だ。(こちらが麦庵さんね) ようやく本格的に気力も体力も回復していざ、出発。桂浜までは後、4km弱。普通に歩けば1時間の道のりだけど・・・・・ そういや今思い出したけど、うどんは讃岐に入るまで我慢しようと思ってたのに、この時食うてしもうたんや。 うん。気付かなかったことにしよう。 でも讃岐に入って初のうどんも似たような感じだったような・・・・・ああ、あの日は昼も晩もうどんだったよ。 懐かしいな。 まぁまぁかな、と思ったら応援よろしこ。 一回ずつ、ポチポチっと↓↓↓ なーんて。 「ねはんの里」ホームページへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2010.11.18 23:22:47
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