|
テーマ:憲法改正(90)
カテゴリ:時事問題
第1条 天皇は日本国民の伝統の象徴であり、したがって日本市民の統合の象徴である。 天皇は日本国の文化的代表であり、したがってそれに相応した文化的儀式を執り行う。 天皇の地位は日本国民の歴史的総意にもとづくものであり、したがって日本市民がその地位とその権能について決定を下すに当たっては*――年号を指定する義務をはじめとして――*日本の伝統からの制限を受ける。(西部邁『わが憲法改正案』(ビジネス社)、p.226)
天皇は(歴史を紡いできた)日本国民の伝統の象徴であり、したがって(今を生きる)日本市民の統合の象徴である。 のように補足してみれば、どうして西部氏が<国民>と<市民>を使い分けているのかが少しなりとも見えてこよう。 さて、西部氏は<象徴>という言葉を使うことに肯定的である。 《「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)というのよりも、天皇は象徴である、とする方が超越次元に向けられた表現としては明確なのだ。なぜなら、管見(かんけん)によれば、天皇は超越次元と世俗次元の境界線上に位置づけられる存在だからである》(同、p. 120) 詰まり、天皇は、聖俗2つの次元に跨(またが)る「境界人」(marginal man)だという見解である。天皇には、目に見える部分と目に見えない部分が在る。言い換えれば、天皇には、目で見る「俗なる天皇」と心で見る「聖なる天皇」の二面性が存在するという解釈である。 《超越者そのものについては、キリスト教徒はゴッドを、仏教徒はブツダをというふうに、天皇とは異なるものを神聖と考えている。つまり天皇は、神聖の存在そのものではなく、神聖の領域が人間の精神世界にあるのだということを示すのである。その世界にゴッドをみるかブッダをみるか、八百万(やおよろず)の神々をみるか、その最高神を天皇とするか、それは市民の信仰の自由というものである。 天皇制は、ただ、信仰の領域と生活の領域が無縁でおれないし、無縁であるべきでもないという人間の精神的現実の構造を象徴する社会制度である。そうだとすると、市民の天皇観にたいし神聖不可侵という感情的コミットメントを要求するわけにはいかない。象徴という感情中立的な表現のほうが天皇制の本質を射当てているのではないか》(同) <天皇制>という言葉遣いを拒否する人達がいることを百も承知で西部氏はこの言葉を用いている。 《ここで天皇「制」というのは、コミンテルン(国際共産主義運動)がいったように階級支配のための政治的機関ということではまったくない。国民の精神のうちにパブリック・マインド(公共心)があり、それにもとづいて国家観念が形成される。そして、その国家についての象徴制度が国民に共有される。つまり天皇制は国民の国家意識における「慣習としての制度」だということである》(同、p.84) 私見では、明治以降、天皇について憲法が規定しているのであるから、1つの「制度」としてこれを捉え、「天皇制」と呼ぶことが適当であろうと考えている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.02.18 21:00:08
コメント(0) | コメントを書く
[時事問題] カテゴリの最新記事
|