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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
あるいはまた、彼らが現憲法擁護に狂奔(きょうほん)するのはただ現憲法が、戦争放棄を規定するが故に、この非国家的規定を固守して、中ソの安全に資せんとする「祖国中ソ」に忠誠を尽くすための運動であって、わが日本国のための憲法擁護運動ではないのである。 もし日本の革新政党が、保守政党に先んじて、日本固有の憲法の復活を、法理論に従って主張し、その復活した帝国憲法の大改正を提唱し、筋道を貫けば、おそらく日本国民の人気をさらうであろうのに、中ソの第5列的役割から離脱し得ないことは、ひとり社会党のためばかりでなく、国家のためにも遺憾なことである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 88-89) <護憲運動>とは、「平和主義」を隠れ蓑にした「日本弱体化運動」である。その先には、隙あらば日本を侵略したいと考えている、シナやロシアのような国がある。 わが国は神代の昔から君民共治だが、それは天皇を9千万分の1と見るのではない。元首を選挙によって平面的に求めることをせずに、長い伝統の上に立つ者を、立体的に、歴史的に決定し、仁徳と輔翼(ほよく)との相互作用をもって一貫した超実利的祖先の理想を、地球上に実現、発展せしめんとする祖孫一体の家族国家である。(同、pp. 92-93) 果たして日本の政治は、<君民共治>なのか。鎌倉時代以降、権威と権力の分離が図られ、天皇は政治に関わらなくなった。明治になって、天皇が政治利用され、あたかも天皇が最高権力者であるかのような形になってしまったが、実際は、「天皇は君臨すれども統治せず」ということだった。<地球上に実現、発展せしめんとする祖孫一体の家族国家>などという話は、地に足の着かぬ「浪漫」であり、私はこのような「理想」に与(くみ)しない。 わが国における政治の運営は、治者たる者の統治と、被治者たる者の輔翼(ほよく)――奉仕の関係である。いわゆる民主主義の徹底とは、わが国においては、この輔翼制度をいかに民主化するかである。大正、昭和以降の失政は、輔巽者が、個人化したことに基因するから、今後はすべからく、これを大衆化――国民化して、三権分立についていえば、国会も、内閣も、裁判所も、国民の中から直接、間接の選挙によって選び出された者に輔翼せしめることに、工夫をこらすべきであろう。(同、p. 93) <輔翼>という考え方も、天皇の権威を政治に活かすための一種の「便法」であって、ここに戦前の政治体制の不備を見るのは誤りであろう。むしろ、総理大臣の権限規定が帝国憲法からすっぽり抜け落ちてしまっていたために、「統帥権干犯(かんぱん)」問題が生じてしまったことの方が遥かに大きな問題であったと思われる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.08.01 21:00:09
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