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2007年11月12日
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今日のまとめ

1. 欧州の工業化は素材への需要を高めた
2. 列強は資源を求めてアフリカ大陸を競って植民地化した
3. 第二次世界大戦は植民地独立運動のきっかけを提供した


■植民地獲得競争の起源

 世界におけるインダストリアル・コモディティー(鉄、すず、亜鉛、銅などの工業向け素材)の消費が爆発的に増えたのは1860年代以降です。その直接のきっかけになったのは1856年にイギリスで発明されたベッセマー法と呼ばれる製鉄法です。ベッセマー法は圧延に適した強靭な鋼鉄の製造を可能にしました。鋼鉄の登場は様々な機械の製作を可能にし、これが欧州各国の急速な工業化を促進したのです。

 急速な工業化の進展はあらゆるコモディティーに対する需要を増やしました。素材価格が急騰したのはそのためです。こうして1870年頃にはコモディティーの価格はピークを迎えます。下のグラフは当時の米国での卸売物価の推移を示したものですがウグイス色の理論値は経済学者エドワード・デューイによる通常の商品価格サイクル下でのさまざまな商品価格の合成値であり、一方、赤が実際の卸売物価です。三箇所赤のグラフが突出している部分がありますが、これらはそれぞれ南北戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦による価格の歪曲を表しています。

卸売物価の54年サイクル

さて、第一回目の卸売物価のピークが来た1870年頃を境に欧州の列強の対外政策は大きく転換しました。それまでは列強は主に欧州域内での領土争いに明け暮れていました。しかし素材価格が急騰しはじめると列強は地下資源を求めて植民地獲得競争に乗り出すのです。列強によるアフリカ大陸の分割が猛烈な勢いで始まったのにはそういう背景があります。アフリカをどう山分けするかの交渉はロンドン、ベルリン、パリなどに集まった代表たちによって行われました。

 しかし彼らはアフリカ大陸の実情に関しては極めて限られた知識しか持たず、国境線を定める場合も往々にして緯線や経線を基準とした直線の国境線を引きました。こうして定められたアフリカの植民地各国の境界線の実に2分の1は直線ないしは半円形の極めて人工的な国境線だったのです。このような現地の実情を考慮に入れない線引きによって引き裂かれたエスニック・コミュニティーの数は190にものぼると言われています。

 例えばナイジェリア一国を取っても250ものエスニック言語が存在します。列強が国境線を定めるまではナイジェリアという概念は存在しませんでしたし、新しくナイジェリア国民として括られたそれらの種族には当然国家意識など無かったわけです。後にアフリカ諸国が植民地からの独立を果たし民族による自治を始めた以降も内紛など数々の問題に直面したわけですが、それらの問題の種はこのときに蒔かれたと言えます。こうして1876年から1900年までの僅か25年間にアフリカ大陸の79.6%が新たに植民地化されたのです。

1914年当時の欧州列強によるアフリカの植民地
(1914年当時の欧州列強によるアフリカの植民地、出典:ウィキペディア)

 欧州における高度な工業化は企業家に利益をもたらし、高度の資本の蓄積を生みました。しかし本国では投下資本利益率が漸減していたため企業家やマーチャント・バンカー達は余剰資本を投下資本利益率が相対的に高い後進国へ振り向けました。勿論、そうした投資資金はアフリカのみならずラテンアメリカや北米にも振り向けられましたが、アフリカの支配がこの高水準の国際間の資本取引(下のグラフの緑の円部分)が実行される環境の下で押し進められたことを特筆しておきたいと思います。

経常収支データから求めたクロス・ボーダー資本取引額


■第二次世界大戦とアフリカ

 第二次世界大戦の勃発はアフリカの運命を大きく変えました。先ず戦争が始まるとモンバサ、フリータウン、アクラなどのアフリカの町は戦争に必要な物資の集積基地となりました。イギリスは30万人を超えるアフリカ人を招集しエチオピア戦線でイタリアとの戦いに投入したほかインド・ビルマ戦線にもアフリカ部隊を派兵しました。折からインドではガンジーらによる植民地支配からの脱却を目指す運動が展開されておりアフリカ人は初めて民族主義運動の存在を知ることになるわけです。

 第二次世界大戦は欧州列強の国力を消耗させました。もはや植民地を養うだけの余力が無くなったことを自覚したイギリスをはじめとする欧州各国は1941年に太平洋憲章で米国が示した民族自決の主張を受け入れます。ルーズベルト大統領は1943年のカサブランカ会議に於いてイギリスの植民地支配の非人道的なさまを公然と非難し、チャーチルは植民地を手放すことをしぶしぶ認めます。第二次世界大戦が終結すると戦争に絡む商品相場のブームも終わりました。するとアフリカ経済はとたんに不景気となり、仕事を求めて都会に出てきた住民はラゴス、キンシャサ、ダカール、ナイロビなどの都市にスラムを形成しました。





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最終更新日  2007年11月13日 10時05分02秒


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