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イザヤ書48章を読んで思うこと。それは、「捕囚の民よ、聞け。わたしに聞け」ということ。
「ヤコブの家よ、これを聞け。あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、ユダの腰から出、主の名によって誓い、イスラエルの神をとなえるけれども、真実をもってせず、正義をもってしない。」(イザヤ書48:1) 「ヤコブの家」の実体は、かたくなな、鉄の腱、額は青銅、厚顔無恥です。何度語っても、従いません。厳しい言葉ですが、これが現実です。 それ故に、彼らはバビロン捕囚となりました。だから私たちは、神に聞くべきなのです。だから私たちも、神に立ち返るべきなのです。 「わたしはあなたが、かたくなで、その首は鉄の筋、その額は青銅であることを知るゆえに、いにしえから、かの事をあなたに告げ、その成らないさきに、これをあなたに聞かせた。」(イザヤ書48:4〜5) 私たちは、神の言葉によって聞くことができます。私たちは、主イエスによって、聞くことができます。 「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」(ヘブル書1:1〜2) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024/04/16 04:36:25 AM
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