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2009年10月28日
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三島神社(森町)鳥居の鈴木藤三郎寄進

10月13日午後7時からの森町商工会館での勉強会に参加する前に、町内を散策した。
庵山の福寿観音様、鈴木藤三郎の墓に詣で、太田川を望み、三島神社に詣でた。
三島神社は庵山と対して南側から森町を見守る。9月27日の「森町見学会」の折は改修中だった男坂の新設も終わっていた。
夕暮れ近い三島神社に登ると古びた男坂の鳥居に「鈴木藤三郎」と刻まれていた。少しえぐられている。そういえば日本醤油醸造会社が破綻し、世間から袋叩きのように扱われた頃、削ったのではないかと言われていた人がいたなあ。
この三島神社の麓で生まれ、育った太田文四郎通称平助、ちえの二男として生まれた才助少年は、三島神社に詣で、太田川で川遊びしていたのだ。
後に、氷砂糖工場を東京へ移転し、精製糖会社を興し、台湾製糖会社の社長となり砂糖王と称せられた。その後、製塩、醤油醸造などの発明とともに新しい事業を次々と興して、国に報い、先師二宮尊徳先生の恩徳に報じようとした。
青年期にして事業活動の場を東京に遷したため、故郷森町にいることは少なかったが、生涯故郷森町を愛してやまなかった。庵山に福寿観音を建立し、三島神社に鳥居など寄進した。福川泉吾氏とともに私立周智農林学校を設立した。おそらくは欧米視察の際ドイツのケールチング工場で工科大学生が工場で実地練習をしているのを見て感銘を受け、鈴木農場と連携して将来の日本国の農林事業を担う人材を育成しようと願ったものであろうか。

三島神社

 夕焼けや三島の社(やしろ)神さびて 大人(うし)の名刻む鳥居照らせり




鈴木藤三郎報徳日めくり(発行 「報徳記を読む会」)

28日

明治39年、二宮翁の50年祭を東京に催すや、君率先してその議に参加し、ついで我が報徳会の創立者の一人となりぬ。後、自ら巨費を投じて、報徳文庫を、野州今市に建設し、二宮翁の遺書万巻を納む。これより翁の遺教、ますます世に顕わるゝに至る。

君の事業は永く天地の間に存して、君の志は千歳の下必ずこれを知る者あらん。

岡田良平
 


「斯民」第8編第7号(大正2年10月1日) (34~55頁)
 
 

鈴木藤三郎氏の逝去
鈴木藤三郎氏は大正2年9月4日午前2時に亡くなった。享年59歳、法名は報国院偉徳道勲居士。6日深川で仮葬式を行い、9月14日郷里の森町での本葬式が営まれた。

森町における本葬式
 氏の遺骸は、仮葬式後荼毘(だび)に付せられ、郷里なる静岡県周智郡、森町に送られ、9月14日を以て、いと丁重荘厳なる本葬式は行われたり。今その模様を略記せんに、同日自邸出棺前、大広間にて衆僧の読経あり。午後3時号鉦一打出入の人々先駆をなし、故勲4等鈴木藤三郎柩と大書したる銘旗1旗、次に岩下清周、福川忠平、三井物産会社、その他寄贈の造生花40余対、森町尋常高等小学校惣代、周智農林学校生徒これに次ぎ、親戚故旧会葬者粛々としてこれに随い、式場に向う。場は周智農林学校校庭を用い、正面には大導師日置黙禅老師を中心として、左右に20余名の衆僧着席す。葬列式場に着し席定まるや、会葬者の弔詞、導師の香語あり。次に近親故旧会葬者の焼香礼拝あり。午後5時半式全くおわる。当日会葬者千余名、みる者道に満ち、実に空前の盛儀なりき。会葬者の重なる者は、
 中央報徳会代表者大日本報徳社長岡田良平、貴族院議員江原素六、松島千湖、藤田周智郡長、(以下略)にして、又弔電の重なる者は、
 原敬、床次竹次郎、一木喜徳郎、岩下清周、秋野孝道(以下略)にして本会の弔詞左のごとし。
 我が中央報徳会に、かつて久しく評議員として力を致されたる鈴木藤三郎君逝けり。君は遠州周智郡森町の人、少にして、つとに二宮尊徳翁の事に感じ、長じて、翁の教えを工業界に活用せんことを期せり。君人となり、明敏綿密にして最も発明創作の才に富み、つとに各種の器械を工夫して、内外の特許を得ること、200余種の多きに達し、我が国における発明界の第一人者を以て称せらる。初めその家業に因みて製糖の法を案出し、ついでこの器械を発明して、すなわち新製糖の業を東京に起こし、爾来連(つが)りに改良拡張して、大製糖会社の基を開く。我が国糖業の今日ある、君の企画経営に負う所少なからずという。後、醤油醸造の新法を発明し、既にして日本醤油会社の事あり。一たび蹉跌しては、自己の全財産を提供してその責に任じ、敢て逃避する所なし。而して発明起業の初志を固守し、更に勇を鼓して、発明部、水産部の事業を経営し、特に自ら煙酒を禁じて摂生に努め、最も勇猛精進して、私に捲土重来の日あらんことを期せしに、今や卒然としてこの事あり。何ぞ哀悼に禁うべけんや。
 君、分度の余力をもって公共に尽くす所少からず。特に道徳経済との調和をもって任とし、明治39年、二宮翁の50年祭を東京に催すや、君率先してその議に参加し、ついで我が報徳会の創立者の一人となりぬ。後、自ら巨費を投じて、報徳文庫を、野州今市に建設し、二宮翁の遺書万巻を納む。これより翁の遺教、ますます世に顕わるゝに至る。而して今やその業独り存して、その人則ち亡し。ああ悲しいかな。
 去冬以来、君が家不幸何ぞ頻繁なりしや。一月には、嗣子嘉一郎君病んで歿し、2月にはその経営したる農業に火あり。5月には、養大孺人(養母)に喪せり。君哀傷の故をもって志を緩めず。いよいよ発憤勉励してやまざりしに、この夏、たまたま病を感じ、終に癌腫の診断を受く。然れども意気毫もために沮喪せず、人事の限りを尽くさんことを期し、医の慰諭するをも聴かず、強いて請うて手術を受け、不幸これがために発熱して、終に起たず。時に大正2年9月4日、生まれし安政2年をへだつること50有9年なり。
 君意志最も堅剛にして、成るに淫せず、敗るゝに荒まず、栄枯盛衰をもって動くなし。不幸中道にして病を得るや、不治の故をもって喪心せず、病苦をもって懊悩せず、堅忍確持、泰然として後事を区処し、もって最後の一呼吸に至る。偉丈夫に非らざるよりは、いずくんぞ能くこのごときを得んや。ただそれ窮通は命なり。寿夭は天なり。つとに天命に安んじて、人事を尽くせり。君の事業は永く天地の間に存して、君の志は千歳の下必ずこれを知る者あらん。君の英霊こいねがわくはもって瞑せよ。
  大正2年9月6日 東京中央報徳会評議員総代 岡田良平



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最終更新日  2009年10月28日 02時37分44秒



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