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2011年03月28日
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東日本大震災 助け合い自然と調和する生き方の記録 その21(平成23年3月28日)



 エルトゥールル号遭難:邦人救出のトルコ航空元機長来日、慰霊碑に献花 /和歌山
毎日新聞 3月28日(月)12時27分配信

◇「邦人救出で恩返しできた」
 ◇イラン・イラク戦争時テヘラン入り 取り残された215人、危険を顧みずに
 イラン・イラク戦争中の1985年3月、テヘランに残された日本人215人を救出したトルコ航空機のオルハン・スヨルジュ元機長(85)が27日、串本町樫野を初めて訪れ、トルコ軍艦・エルトゥールル号遭難慰霊碑に献花した。「日本人を全員救出でき、うれしかった。(エ号の)恩返しができた」と心境を語った。【山本芳博】
 イラクが航空機無差別攻撃を宣告し、各国機が自国民を優先する中で、トルコはテヘランに航空機を飛ばし、日本人を助け出してくれた。その友好の原点には、エ号が1890年に同町沖で遭難し、500人以上の乗組員が犠牲になる中、町民が69人を救出したことが背景にあった。
 スヨルジュ元機長は妻ヘルガさん(73)と、エ号生存者の孫のネビン・セレスさん(59)と息子のエムレさん(32)と訪れた。28日に和歌山市で開かれるエ号遭難をテーマにしたコンサートのゲストとして来日した。
 4人は田嶋勝正町長らの出迎えを受け、エ号の慰霊碑に献花した。町民も追悼歌を歌った。スヨルジュ元機長は「短い時間だが、皆さんと会うことができ、大変うれしい」とあいさつ。また、戦争時の救出時を振り返り、「危険だったが、日本人を『助けなければ』という思いと同時に『助けたい』という恩返しの思いがあった」と話した。
 エ号で救出された祖父の遺影を持ったセレスさんは、遭難した海域を見て「串本の人が祖父を助けてくれなかったら、私も息子もこの世にいない。本当に感謝している」と感慨深げに話していた。

3月28日朝刊


津波のまれ「死を覚悟」=娘抱き女性、奇跡的に生還―宮城
2011年3月28日(月)15:03
 宮城県名取市閖上地区で、生後11カ月の娘とともに津波にのまれ「死を覚悟した」という女性(38)が、避難先の同市内の施設で救出までの生々しい様子を語った。一緒に逃げた隣人2人は安否不明のままという。

 地震約30分後。女性は娘を抱いて家を出て、隣に住む女子中学生とその母親の計4人で車に乗り、避難所へ向かった。その直後。わずか50メートル先に津波が見えた。

 「車がふわっと浮いた」。瞬く間に車は流され、フロントガラスが割れた。「ゴゴゴーと、すごい音だった」。娘を抱き、必死で車の外に出たが、流れはあまりに速く強く、隣人らを見失った。

 アパート2階ほどの高さをただ漂うしかなく、真横を見覚えのあるアパートや家、車が流れていった。「私はここで終わりだ」。覚悟を決めた。しかし幼い娘は手を離せば一瞬で流される。泥水を飲みながら「守らなきゃ」と夢中で抱きしめ続けた。

 奇跡的に流れが変わり、何とかがれきの山にはい上がった。だが周囲を濁流に囲まれて動けず、偶然そばにいた見知らぬ女性2人と、雪が降る中身を寄せ合い一晩を明かした。その晩の閖上地区では火災も発生。「目の前で次々と家が燃えていった。危険と隣り合わせだったけど、明かりで安心もした」という。

 翌朝、自衛隊のボートで救出された女性と娘は、幸い大きなけがもなく、他の家族も無事だった。しかし一緒に逃げた隣人を含め、地区では多くの人が今も安否が分からないままだ。

てんでんこ」三陸の知恵、子供たちを救う
読売新聞 3月28日(月)15時7分配信
 東日本巨大地震による津波で大きな被害を受けた岩手県釜石市と大船渡市で、津波に備えた知恵や工夫が奏功し、多くの子供たちの命が救われた。

 釜石市では、津波から身を守る方法として三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」が効果を発揮。大船渡市では、学校から高台へ素早く逃げられるよう、父母らの訴えで昨年秋に完成したばかりのスロープでの脱出劇があった。

 ◆過去の教訓◆

 死者・行方不明者が1200人以上に上った釜石市では、全小中学生約2900人のうち、地震があった3月11日に早退や病欠をした5人の死亡が確認された。しかし、それ以外の児童・生徒については、ほぼ全員の無事が確認された。

 市は2005年から専門家を招いて子供たちへの防災教育に力を入れており、その一つが「てんでんこ」だった。度々津波に襲われた苦い歴史から生まれた言葉で、「津波の時は親子であっても構うな。一人ひとりがてんでばらばらになっても早く高台へ行け」という意味を持つ。

 学期末の短縮授業で184人の全校児童のうち約8割が下校していた市立釜石小。山側を除くほとんどの学区が津波にのまれたが、児童全員が無事だった。学校近くの住宅街で友人と遊んでいた同小6年の藤元響希(ひびき)君(12)は「家族や家が心配だったけど、無意識に高い方に走って逃げた」。その後、避難所で家族と再会できた。 最終更新:3月28日(月)15時7分


女性も十数人…両親不明も「被災者である前に原発職員」
2011.3.28 15:09
 第1原発の南10キロ余りの場所にある第2原発の所長を昨年6月まで務めていた東京電力の石崎芳行執行役員に23日までに、第2原発の女性職員から悲痛なメールが届いた。

 「地震発生以来、毎日不眠不休でみんなと戦っておりますが、個人的には、実家が海沿いにあるため、津波で町全体が流されました。実家の両親は津波に流され、いまだに行方がわかりません

 「発電所にいる人間の大半は地元の人間で、私も含めてみんな被災者なのです。被災者である前に、東電社員としてみんな職務を全うしようと頑張ってます

 「私たちは最後まで戦います! 本店からもご支援ください。よろしくお願いします

 関係者によると、第2原発には約600人が勤務しており、女性も十数人いる。“主戦場”の第1原発では敷地中央付近にある免震重要棟で常に200人前後が決死の復旧にあたっているが、ここにも女性が数人おり、風呂にも入らず作業しているという。


上限引き上げ


 作業員の緊急時被曝線量の上限は年100ミリシーベルトだが、厚生労働省はこの事故に限り250ミリシーベルトまで引き上げた。被曝線量が500ミリシーベルトに達すると、体内のリンパ球減少などの影響が出始めるとされる。

 技術評論家の桜井淳氏は「年250ミリシーベルトは妥当な数字。住民に不安を与えており、現状を考えると作業の辞退など許されない」と、東電や協力会社の社員に覚悟を求める。宮崎慶次大阪大名誉教授(原子力工学)も「非常事態。早く終息させるためにも、知識のある人が残って作業にあたるのは仕方ない」と話す。


東日本大震災 たんすに乗って漂流し助かる 大船渡の男性

毎日新聞 3月27日(日)18時55分配信

 津波で家ごと流された岩手県大船渡市の会社役員、金野健一郎さん(37)は、たんすにつかまり大船渡湾を漂っているところを小型船に助けられた。船長の男性は、名前や住所を頑として名乗らなかった。金野さんは「船長の恩は一生忘れない。落ち着いたら捜して、もう一度お礼を言いたい」と話している。

 地震が起きた11日、金野さんは公民館にいったん避難したが、スーツから着替えるために港から約300メートルのところにある自宅に引き返した。2階の窓から外を見ると、「真っ黒な波が渦を巻いて迫ってきた」。

 みるみるうちに2階まで浸水。倒れて浮いていたたんすの背に必死にしがみついた。そのまま天井まで約30センチのところまで浮き上がると、「バキバキ」と音をたてて家が回転し、突然、大きな衝撃音と共に屋根が吹き飛び視界が開けた。たんすの上に乗ったまま沖に向かって流されていた。

 日が暮れ始めたころ、「多賀丸」という船名の小型船が通った。「助けてくれー」と叫んだが、コンテナや民家、木とあらゆるものが海に漂っており、「無理だ」という船長の声が聞こえた。「このまま沖に流されたら終わりだ」と絶望的になった。

 だが約1時間後、多賀丸は引き返し、ロープを使って救助してくれた。「信じられない。助かった」。涙をボロボロと流し、何度も「ありがとうございます」と繰り返すと、船長はただ黙ってうなずいていた。

 そのまま一晩を船上で過ごした金野さん。夜は一睡もできず、落ち込んでいた。

「命があるだけでいいんだ」

「またやり直せばいい」。

船長は金野さんを励ましてくれた。

 12日夕、金野さんは別の漁船に移り、大船渡湾の東側に上陸。数時間歩いて公民館にたどり着き、避難していた家族3人と抱き合い無事を喜んだ。

「助かったのは奇跡。家族と頑張って、一から生きていきたい」

【鈴木一生、山本将克】






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最終更新日  2011年03月28日 22時41分18秒
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