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カテゴリ:遠州の報徳運動
遠州報徳の師父の風景2 福山滝助のこと(「尊徳の裾野」336頁)
福山滝助は1817年4月小田原に生れた。本名里見多喜蔵である。家は4代続いた菓子屋だったが、4歳の時に父が死に、母と共に苦労して育った。長じて製造した菓子を荷なって近郷を売り歩くうち、「報徳の仕法」ということを耳にして関心を持った。たまたま、隣家の旅宿浜田屋から出て、藩の重臣山本源太兵衛の用人となっている高木治左衛門という人があり、時々実家に帰ってくる。ある日、これを待ち受け「報徳の仕法」のことを尋ねた。治左衛門は、尊徳の経歴や桜町・小田原の仕法について懇切に説明し「そなたはまだ大変若いから、もしこの教えに従って勤めて怠らなければ、一代のうちには土蔵4棟ぐらいは建てられるだろう。けれどもそれを全部土蔵にはしないで、その半分で土蔵2棟を作り、あと半分は身代の外として推し譲るがよい。これが、いわゆる虚空蔵というもので、そなたの家の『越中控え』となるのだ。この控えがあるかぎり、そなたの家は子々孫々、万代不朽に続くだろう」と教えた。多喜蔵は感心し、これでやろうと決心した。1843年5月小田原宿の町人有志で報徳社が結成される時、志願し末席に加えてもらった。多喜蔵は天保14年8月。報徳社世話人尾嶋屋忠次郎に伴われ、江戸の小田原藩邸で尊徳に初めて面謁した。門人およそ14,5人が机を並べて仕事し、首席は富田高慶で、福住正兄もその列の中にいた。尊徳は鏡に向い髪を調えそれが済むと面会した。尊徳は多喜蔵に目を向けると、尋ねた。「何商売か?」「菓子屋です」「菓子の菓と因果の果と、違いがあるか?」妙な質問に多喜蔵がとまどうと、正兄が口をはさんだ。 「草冠があるのとないとの違いがあります」「しかし音は同じだし、形も似ているではないか」尊徳は多喜蔵に向い次のように説いた。「何事でも第一に肝要なのは形なのだ。形が似なければ、精神も同じものを顕わすことができない。だから、もし人がわが道を修めようと思うならば、まず形から入らなければならない」多喜蔵が最初に受けたこの教えは、彼の一生を貫く大きな心棒となった。28歳で独立し一戸を構え、福山家を継ぎ、翌年結婚し、菓子の製造販売に専念した。報徳の精神で、100文につき1文しか利益を考えなかったから店は繁昌した。小田原報徳社は創立当時の世話人が欠けると衰微した。嘉永元年(1848)、多喜蔵は同志5人で再興にかかった。嘉永4年から家業の年間収入をおよそ30両、純益を2割と定め、年々全額を推譲し11年間実行した。報徳社が、年々この6両を無利5か年賦元恕金付で運用すれば、60年後は6484両ふえる。やれば実行できる。これが報徳仕法の本当の「形」だと多喜蔵は悟った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年09月28日 00時17分17秒
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