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2017年01月22日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
八田與一の台湾土地改良に対する意見 国立台湾師範大学歴史学系教授 呉文星

1 はじめに
 台湾が日本殖民地統治を離脱してすでに半世紀が過ぎ、その統治に対しては、各界を問わず長期に渡って多くの批判が行われてきた。しかしながら、八田與一に関しては、いまだに尊敬と懐かしさの念で語られることが多い。戦争が終わって間もない1946年12月に、華南農田水利協会は特別に八田夫妻のために純日本式の墓を造った。その後1981年に、1931年に造った銅像をその墓の前方に再び安置し、毎年5月8日の與一の命日には、多くの台湾人、日本人が追悼の儀式を行っている。彼がこうした特別な扱いを受けるのはなぜであろうか。それは彼が技術官僚として台湾の水利建設に重大な貢献をしたためであろうと考えられる。
 八田與一は1886年、日本の北陸石川県で生まれた。1910年7月、東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、間もなく台湾に渡り台湾総督府土木部技手を務め、1914年技師に昇進した。その間、衛生や発電、灌漑といった施設の建設を担い、桃園大圳(とうえんたいしゅう:台北盆地の西にひろがる桃園台地に設けられた水路で、台北市南西で北流する淡水河が桃園台地により行手をさえぎられ東へ流路を変える石門にダムをつくり、台地上に導いて溜池に給水するもの)の設計などを行った。1917年には嘉南平原の水利状況を調査し、1919年に嘉南大圳工事の設計を完成させた。翌年官佃渓埤圳組合(かんでんけいひしゅうくみあい:後の嘉南大圳組合)の技師に転任し、ダムや水圳建造の責務を負った。工事の進行期間中には、技術や設備、および経費の問題を克服し、「半射水式」(セミハイドロリック・フィル)工事法によって大堰堤を建造したり、またアメリカやカナダに赴き、調査並びに大型工事機械を購入するなどして、1930年5月に、9年半にも及ぶ工事を順調に完了させた。建設した烏山頭ダムの土堰堤は全長1273メートル、高さ56メートル、満水面積13平方キロメートル、貯水量1億5000万トンに及び、当時東アジアでは最大規模の土堰堤のダムであった。嘉南大圳の送水・排水路の全長は16,000キロメートル、灌漑面積15万甲キロ近くにも及んだ。1931年7月に、嘉南大圳組合員達は、八田與一に一体の銅像を贈呈し、その功労を称えたのであった。
 1930年8月、八田は台湾総督府内務局土木課技師兼水利技術係長を再び務め、翌年1月、水利委員会委員に任ぜられた。1935年、一度福建省顧問技師として招請され、福健へ調査に赴き、当省の水利灌漑施設計画書を定めた。1937年には、総督府専売局、殖産局農務課技師を兼任し、1939年に勅任官技師に昇進した。また一方では、1930年11月に台湾水利協会が成立し、八田はその幹事に推挙され、その後長期間にわたり連任することになった。1935年7月に台湾技術協会が成立し、八田は理事兼庶務部長を務め、1938年には評議員となり、1939副会長に推挙され、翌年会長を務めた。さらに1939年1月には『台湾農会報』の編纂委員として招聘された。この他、1940年11月総督府によって農林調査団長に任命され海南島で発電および水利事業の調査を行った。この期間、八田は水利工事の専門家として台湾土地改良基本計画の作成に尽力し、同事業の発展を促した。
 1942年3月、八田は日本陸軍省によって「南方開発派遣要員」として招聘され、フィリピンに派遣されて綿作灌漑の調査を行うこととなった。そして5月7日に、14,000余トンの大型客船「大洋丸」に乗って出発し、フィリピンへ向かう途中、翌8日にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭って遭難した。享年56歳であった。





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最終更新日  2017年01月22日 03時50分19秒
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