12345049 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
全て | 報徳記&二宮翁夜話 | 二宮尊徳先生故地&観音巡礼 | イマジン | ネイチャー | マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界 | 宮澤賢治の世界 | 五日市剛・今野華都子さんの世界 | 和歌・俳句&道歌選 | パワーか、フォースか | 木谷ポルソッタ倶楽部ほか | 尊徳先生の世界 | 鈴木藤三郎 | 井口丑二 | クロムウェル カーライル著&天路歴程 | 広井勇&八田與一 | イギリス史、ニューイングランド史 | 遠州の報徳運動 | 日本社会の病巣 | 世界人類に真正の文明の実現せんことを | 三國隆志先生の世界 | 満州棄民・シベリア抑留 | 技師鳥居信平著述集 | 資料で読む 技師鳥居信平著述集  | 徳島県技師鳥居信平 | ドラッカー | 結跏趺坐 | 鎌倉殿の13人 | ウクライナ | 徳川家康
2017年01月22日
XML
アメリカの歴史はある意味、保護主義と自由主義の繰り返しのようなところがある。

新渡戸稲造がアメリカに留学した時、同じ宿舎の学生が大工出身である程度資金がたまると大学に入学して勉強する姿に驚いたが、彼は保護主義を唱え、新渡戸と論戦になった。

新渡戸はイギリスの経済学者などの権威をふりかざしても、そんなのは知らないと自説を譲らない。

新渡戸は権威ではなく自分自身の考えを大切にするアメリカの人民の考え方に感銘を受けた。

帰雁の蘆
四二 米人の見識 職工の徒に学ぶ   
 少し羞(はず)かしいことだが思い出す事がある。僕は米国でジョンズ・ホプキンス大学に行く前に、二週間ばかり田舎の小さい学校〔アレゲニー大学〕にいた。当時同室の者は、フィラデルフィアの青年で職業が大工で、平生(へいぜい)稼いで金を儲け学資が整えば学校に来、一年ほどたって金が尽きると自分の職業に戻る。そのうち貯蓄ができれば復校する。こういうぐあいだから、普通の人が四年で卒業するのを十年ばかりかかってやる計画であると話した。僕は初めの間、大工と同室するのかと思って少し不快に感じたのみならず、実は心底その男を馬鹿にしておった。ところでこやつ、おりおり自由貿易と保護貿易の得失を並べ立て、熱心な保護論者であった。別に取るに足らぬ奴と僕は高をくくっていつもひやかし半分に相手していたが、こやつ中々議論が強い。僕はあながち自由貿易主義じゃ無けれども、大工の小僧と争論するのもいかがわしく思って、時々威(おど)かし半分にミルがこう言ったとか、ロッシェルがこう論じたとか言って、東京の大学で習った大家の名をもって推しつけたが、こやつの所信確然として動かぬ。「イヤ、イギリス人やドイツ人が何をいっても構わぬ、われわれアメリカ人はこういう考えだ」というので、その見識の高いのに一驚を喫した。ここがすなわち書物を読むに大切なところのようだ。われわれは普通にはとにかく書物に負けてしまって判断力を抹殺してしまう傾向がある。いかに詰まらぬ本でも、墨で白紙に印刷にさえなっていれば、ごもっともだとする。ことに西洋の書物であると、何誰博士と名称を唱うれば、南無阿弥陀仏より有難く感ずる癖は僕自身にもタップリあるが、世間を見渡すに僕以上の人にも以下の人にも数多あって、心強くもあり、心細くもある。



また、内村鑑三はアメリカに排日論が起こり、日本人や東洋人が排斥される事態に激しい抗議の声をあげた。この時の思惟が人類を一個の家としてとらえ、「人類のため」というノーブルな思想の系譜へとつながっているように思われる。


9 内村鑑三日記より-内村鑑三全集三三~三五-
  [ ]は編者、《 》は『聖書之研究』の号数
大正九年(1920)二月十日(火)晴《236号》(全集三三p.208)[青山士は荒川改修事務所岩淵工場主任]
 夜四谷三河屋に於て東京聖書講演会出席者帝国大学出身者の会食懇話会を開いた。会する者十八名、曰く長尾工学士、南原法学士、川西法学士、藤井法学士、福田農学士、坂田文学士、星野医学士、青山工学士、植本医学士、高田文学士、藤本医学士、高橋文学士、古賀農学士、田中工学博士、前田法学士、池上法学士、内村農学士等であった。日本を救ふにキリストの福音を以てするより他になしと云う事に於ては全会一致した。然し乍ら此目的を達する為には外国人の援助を全然受く可からずと云ふ内村農学士の頑強なる意見に対しては多くの反対があった、何れにしろ珍らしい会合であった。少数なりと雖も我国の知識階級の人々が真面目にキリストを信じて憚らざるに至りしことは感謝すべき事である。
[一九二二年内村の『ヨブ記講演』が発刊される。]      
大正十三年(1924)五月二十七日(火)晴 《288号》
米国大統領クーリツヂ遂に排日法案に署名す。憤慨に堪えず。 [排日問題以降、日記にキリストの為め国の為め等の記述が増えてくる]
五月三十日 国の為め人類の為め何か為さねばならぬと相共に語った。・・・何か国と人類とに貢献せんとて、其途に就いて諮った。真面目なる厳粛なる小集会であった。[傍線は編者、以下同じ]
六月十日 変わらぬは唯一つ、キリストと国とに尽さんと欲する心である。此心を四十七年間持ち続けて来た事を神に感謝する。
六月十二日 是[排日法]はキリストの為にも国の為にも是非とも争はねばならぬ問題である。
六月十四日 国のため人類のために深く思はざるを得なかった。
六月二十三日 多少の譲歩は止むを得ない。キリストの為め国の為めである。・・・
六月二十七日《289号》(略)多数と共に歩まんとする時に譲歩は止むを得ない。今回の事[宣言書]は自分に取りては譲歩忍耐の善き試練であった。キリストの為めである。国の為めである。
[七月十四日広井勇、佐渡から寺泊につく。新潟県の港湾視察の途中で、青山・宮本が出迎え大河津を視察。「先生も老いたり矣」と宮本武之輔日記にある]       
九月二十五日(木)半晴      《291号》
今や祈祷は至って簡短である。「聖旨(みこゝろ)をして成らしめ給へ」で殆んど尽きる。自分に就き、家族に就き、国に就き、人類に就き、何(ど)うして下さい斯うして下さいとは祈らない。             
大正十三年(1924)十月十七日(金)晴 《292号》
[十月十二日荒川放水路通水式があり、青山は主任技師として工事報告した。二五日摂政宮視察予定]
神嘗祭である。北風強くして寒し。聖書研究会会員中の女学生十名(主に女子高等師範生)を伴ひ、旧い教友の一人なる工学士青山士が主任技師として近頃竣工せし荒川下流改修工事中の岩淵水門を見学した。技術上教へられるゝ所が多々あった。発電所に小集会を開き、神を讃美し、我が愛する友の事業の成功を感謝し、其の永く東京市民を福いせん事を祈った。風は寒くあったが心は温く、若き人達と共に一日を暮らして、我も亦若き人となった。
大正十四年(1925)一月十五日(月)曇 《295号》
 (略)夜、青山工学士の訪問あり、二人火燵(こたつ)に陣を取り、関東平野の排水系統に就て聞き大に教へらるゝ所があった。
昭和三年(1928)六月八日(金)半晴  《336号》
[昭和二年六月二四日大河津分水自在堰陥没、青山は十二月新潟土木出張所長となり分水堰再建を担う]
札幌老人組の祈祷会であった。我等は札幌の為に、北海道の為に、日本国の為に、世界人類の為に祈る。又旧友各自の為に名を指して祈る。祈る時に五十年前の青年時代の我等と少しも異らない。そして生涯の終りに近づいて祈祷の益々熱心なるを覚ゆ。
[昭和三年八月十九日、青山は東京出張の帰途、信越線急行車中で宮本と一緒になり、内村の著書『ヨブ記講演』※を送った(『宮本武之輔日記』P.73)]
十月二日(火)晴 同窓同級の友、東京帝国大学名誉教授工学博士広井勇君昨夜突然永眠した。直に彼の家を訪ひ、彼の冷たき額に手を当てゝ実に感慨無量であった。五十年前に彼と同時にパプテスマを受け、共に福音宣伝の為に働かん事を誓ひしも、彼は日本第一の築港学の権威と成り、直接に伝道に携はらざるやうに成り、其方面に於ける事業は自分が一人で為さゞるを得ざるに至り、堪え難き淋しみを感ぜし事であった。是れで札幌農学校第二期卒業生十人の内、六人まで世を去りて、残るは僅かに四人である。それを思ふて更らに大なる淋しみを感ずる。・・・今朝旧友の死顔に接して今日は終日悲歎に沈んだ。・・・《340号》   
十月三日(水)雨 朝五時に起き、明日行はるべき旧友工学博士広井勇君の葬儀に於て読むべき感想の原稿を書いた。万感胸に迫りて幾度か落る涙を拭うた。・・・
十月四日(木)雨 広井勇君の葬儀を市ヶ谷仲の町の君の自宅に於て行った。番町協会前牧師綱島佳吉君が司会の任に当り、其他万事に渉り我等を指導して呉れた。同窓の友大島正健君と伊藤一隆君と亦儀式の一部を担当して呉れ、自分は予ねてからの故人の依嘱に従ひ、funeral sermon(葬儀の説教)を試みた。実に辛らい役目であった。棺前に立ち、万感胸に迫りて男涙を禁じ得なかった。五十年来の信仰生活の回顧である。彼は如何にして大土木学者に成りし乎、自分は如何にして福音の戦士に成りし乎、其径路を述べて我が心臓は崩れんばかりに震へた。近頃此んな感慨多き説教を為したことはない。
昭和四年(1929)十月二日(水)曇    《352号》
 今日も亦歴史哲学が唯一の思考の題目であった。斯んな大問題に捉われて、他の問題はどうでも可きやうに思はれる。之に関連して「無協会主義の積極的半面」と云ふ考へさせらる。全人類を教会と見るのが本当の見方ではあるまい乎。(略)全人類を教会と見てキリストを其首長として仰ぐならば、自分も其会員たる事を辞さない。無教会主義の積極的反面は全人類教会主義であらねばならぬ。
[内村鑑三の日記は昭和五年(1930)三月二二日をもって終る。三月二八日死去した。嗣子祐之「父の臨終の記」が『聖書之研究』最終号(357号)に載り、三月二六日の内村の最期の言葉を伝える]
「祝賀の為に集まった人々に伝えてくれとて、『万歳、感謝、満足、希望、進歩、正義、凡ての善き事』
と云ふ短い言葉を以て此時の心持を表した。尚付け加へて言った。『聖旨にかなはゞ生延びて更に働く。(略)宇宙万物人生悉く可なり。人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る』と。」





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017年01月22日 09時50分34秒
[イギリス史、ニューイングランド史] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.