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2017年01月28日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
台湾を愛した日本人―不毛の大地に東洋一のダムと水路を造り台湾最大の穀倉地帯に変え土木技師 八田與一の生涯 古川勝三著

〇八田與一は石川県河北郡今町村の豪農通称「八田屋」、八田四郎兵衛の五男として明治19年(1886)2月21日生まれた。父の四郎兵衛は、八田屋五代目で十五町歩もの田畑を奉公人を使って耕作するかたわらで、馬喰を行っていた。與一が生まれたとき、50歳に達していて、眼が少々不自由になり始めていた。
 母サトは、石川県潟津村字西蚊爪の出身で、西田又兵衛の長女で、四郎兵衛よりひとまわり若かった。サトは九人の子供に恵まれたが、うち三人の女の子は生後間もなく死に、與一が生まれたときには、長男誠一、二男又五郎、三男智證、四男友雄、それに四女くんが成長していた。
 今町村は金沢の北東6キロ、白山麓のふもとに位置する米作と花卉栽培の盛んな土地であった。
 四郎兵衛という名は、八田屋の跡継ぎが代々襲名していた名前で、與一の父が五代目である。(p.26)

〇與一が小学校へ入学する頃には、父の視力は完全になくなり、寝たきりの状態になった。田畑の管理は長男誠一がになった。誠一は、毎朝、父の枕元でその日の脳作業の指示を受けて、一日の仕事を始めた。夜には、一日の仕事を父に報告した。
 與一は花園尋常小学校を卒業すると、森本尋常高等小学校へ入学し、三年後の明治32年には金沢市にある石川県立第一中学校に入学した。
 中学校へ入学した翌年の5月9日には、父が64歳の生涯を閉じた。與一14歳の時である(p.29)
 
〇加賀は浄土真宗の王国であった。仏の前では誰もが平等であり、師も弟子もないと同朋同行とする親鸞の教えは與一の人格形成の一つの柱になっていた。
 與一の友達にいわゆる部落出身者がいた。與一は時には部落まで行って飯まで食べて帰って来た。家の者に注意されると「同じ人間じゃ、何も変わっとりゃせん。変な目で見たら、誰でも変に見える」と答えたという。この性格は終生変わらず、台湾でも原住民に対する時は、一人の同じ人間として付き合っている。(p.31)

〇明治37年、與一は第四高等学校大学予備校を受験し、合格した。四高には、一部法科、一部文科、二部工科、二部理科、二部農科、三部医科の六学部あり、数学の得意だった與一は、二部工科に入学した。入学式は9月に行われた。同期生は154名で、その中に河合良成、品川主計、正力松太郎などがいた。教師のなかには、與一達に倫理学を講義をしていた西田幾多郎がいた。西田は京都帝国大学助教授とない、明治44年「善の研究」を発表した。
與一は嘉南大圳の工事に取り組んでいた時、よく部下に「覚、哲、悟」という言葉について話している。西田から学んだ哲学と真宗の教えを與一自身が身につけ、その行動と思想は常に信念に満ちた宗教的ともいえるものであった。

〇明治40年(1907)7月、與一は四高を卒業した。與一は東京帝国大学工科大学土木工学科へ入学した。(p.33)

〇東京帝国大学は修行年限3年で9学部30講座あった。
授業は9月10日に始まり、7月10日に終了の三学期制であった。
與一は一人の教授に出会った。廣井勇である。與一が入学した時、廣井は46歳であった。
廣井は與一の6年先輩である青山士(あきら)のことを。よく学生に話している。
青山は「自分は生涯にひとつでもいいから、人類のためになるような仕事をしてから死にたい」と、当時、アメリカ合衆国が計画していたパナマ運河の大土木工事に参画すべく、大学を卒業すると直ちに海を渡った。パナマ運河は大正2年(1913)に完成した。
青山の話を聞くたびに、與一は官位や地位のために仕事をするのではなく、人間のためになる仕事をし、後の世の人々に多くの恩恵をもたらすような仕事をしてみたいと思った。(p.35-38)


高橋 裕講演会『民衆のために生きた土木技術者たち』(2006.2.21)

(青山 士とパナマ運河)

青山士はパナマに着任して1年目で、その前の年にパナマのコロンの港に着いた青山はそれから7年半、パナマ運河工事に一身を捧げます。特に最初の1,2年は下っ端のポール持ちです。何しろ大学を出たばかりですからね。

 パナマ運河工事は、何と労務者の10人に1人が死んでいるのです。こんなひどい工事現場はそうはないのです。その亡くなった人は、ほとんどが病気なのです。もちろん事故とか洪水などいろいろな原因はありますが、過半は病気で亡くなっています。黄熱病、チフス、マラリアといった病気でバタバタ倒れる。
 パナマ運河は最初、スエズ運河を完成させたレセップスがかかっていますが、結局挫折してしまうのですね。次々に死者が出る、お金もなくなる。あまりの難工事にレセップスは途中で断念をする。そして、アメリカが権利を買い取って始めましたが、大変な難工事、特に死者が大勢出るということで、労務者が集まらない。そんな死亡率の高い現場へ誰が行くものか。しかも、熱帯の高温で湿度の高い所へ行く志願者はほとんどいなかった。エンジニアもなかなか希望者はいなかったようです。当時、もちろん現場の建物に冷房装置はありません。しかも大勢の死者が出るので、なかなか人が集まらない。それなのに青山は、別にパナマ運河の方で雇ったわけでもない、来てくださいと言われたわけでもないのに、何と地球の反対側から、その工事をするために自ら進んで行くというのはどういうことか。その頃は大変ですよ。飛行機はない時代で、テレビ、ラジオもないですから、情報もない時代です。それがわざわざ自ら進んで行く。それはアメリカ人やパナマの人にわかってもらえないのも当然でしょうね。
 なぜ青山は、そんな難しい所に、大学を出てすぐ飛び込んだのか。それは一言で言えば彼の人生観ですね。第一高等学校にいたときに、彼はほとんど毎晩、眠れなかった。それは、自分は何のために生きてきたのか、自分は死ぬまでに何をなすべきかということで悩んだそうです。青年らしいというか、もう一言付け加えれば明治の青年らしいと言うべきかもしれません。悩みに悩んだ青山は、内村鑑三の教会に通います。その教会で内村鑑三の教えを受けた。内村鑑三はいろいろな講話をされるわけですが、その講話の中に「後世への最大遺物」という標題の講話がございます。明治27年に話されたものですが、これは岩波文庫に入っていますから、すでに読まれた方もあるでしょうし、あの内村の本を読んで土木工学科へ行ったという人も青山だけではないでしょう。
 内村鑑三は何の話をしたか。もちろん、教会ですから、人生いかに生きるべきかということを、キリスト教に鑑みて話をしました。そして、人生にとって一番大事なことは、子供や孫のためになるような仕事をすることこそ人生の生き甲斐であるというのが内村の考えでした。そのためには土木技術者になることだと。内村自身が河川工事とか土木の現場を見るのが大変好きだったそうです。河川工事もいろいろ見られたという話ですが、ただ、内村鑑三の見方は我々土木関係者とは違ったと思います。土木の人間ですとどうしても、この事業は何のために、どういう技術を使って、というようなことになりますけれども、内村はたぶん、どういう人がどういう気持ちで、どんな志でこの仕事をしたのだろうかという気持ちで土木工事を見たのだろうと想像します。そして、この工事は後世にどう役立つだろうか、あるいは現在の一般民衆にとってどういう意味があるだろうか。たぶん内村はそういう見方をしたのでしょうね。
 その教会の講話は、それで終わるわけにはいかないのですね。後世への最大遺物を作ることに参画できるから土木技術者になるべきだ。大学の土木工学科の講義ならそれで終わりでもいいのですが、しかし、土木技術者になれる人は何十万人に1人という特に恵まれた人だ。大部分の人は土木技術者になることはできない。そこで彼の結論は、勇気ある高尚な生涯を送れ。不正不義と戦うには勇気がいる。そういう人生こそ尊い。そして、それが語り継がれて人類に幸福をもたらすのだ、というのが結論です。
 それを聞いた青山士は、自分は土木技術者になろうと思えばなれる。やっと、自分は何のために生きてきたかという悩みがほどけたのですね。そして、大学の土木工学科に入学いたしました。それには内村鑑三の具体的なお勧めもあったそうです。というのは、当時の東京大学の土木工学科の主任教授が内村鑑三とは札幌農学校で同級生だった広井勇でありました。広井と内村は札幌農学校時代からの若いときからの親友です。ですから、常に交際があって、広井の仕事を内村は非常に尊敬の目をもって見ていたようです。
 「広井君がいるから、ぜひそこへ行きなさい。」
 そこで青山は土木工学科へ入りました。そこでも彼の悩みはまだまだ解けない。自分は土木技術者になれる。ただ漠然と土木技術者になれるというのでは抽象的であって、具体的にどういう仕事をすべきか。それが彼の次の悩みでした。大学を卒業したのが明治36年ですが、その頃、地球上で人類のために最も大事な仕事は何であるか、それを自分はやりたい。地球上で最も大事で人類のためになる仕事はパナマ運河であるというのが青山の結論でした。これは別に内村に教わったわけではない。自分でそう判断したわけです。
 そして、大学を出るや否や、広井勇教授からニューヨークのバー教授宛の紹介状1本を持って、パナマ運河工事に参画するために旅順丸という船に乗って、まずシアトルヘ行きます。そして、大陸横断鉄道でニューヨークヘ行ってバー教授に会い、広井教授からの紹介状を差し出します。そのとき、まだパナマ運河工事は再開されておりませんでしたが、バー教授はパナマ運河工事委員会の委員でもありました。それで、パナマ運河工事の測量のポール持ちのアルバイトを世話しております。
 大学を出たばかりですから、そう何でもかんでもできるわけではない。ただ人類のためになる仕事をしたいという一心で彼はパナマヘ行くわけです。その翌年に始まったパナマ運河工事に参画して、日本が日露戦争が終わった後の混乱の中にあるとき、彼はパナマ運河工事に懸命に立ち向かうわけです。その苦心の状況の一端は映画でご覧ください。
 そこで7年半、パナマ運河工事で働きますが、日露戦争が終わった頃からアメリカ、中南米では大変な反日運動が起こります。日本海海戦の大勝利にアメリカは脅威を感じたのですね。日本海軍恐るべし、やがて日本とアメリカの間で海軍の戦いが始まるだろうとアメリカの海軍は考えた。そして、青山はなぜパナマヘ来たのか。これは同僚は皆、よく理解しました。立派な日本人がいるものだと。ところが、一般庶民にはわからないでしょうね。しかも反日気分が高まる中、アメリカの海軍はいずれ日本と戦わねばならない、そのとき日本海軍はきっとパナマを攻撃するだろう、青山は日本海軍が送ったスパイであると疑われるのですね。そういうことが新聞にも出ました。そこで青山はパナマ運河の完成を見ずして日本へ帰ります。
 帰ってきて、まずした仕事が荒川放水路です。これは現在、何百万人の人間を荒川の洪水から救っております。明治43年(1910年)に利根川、荒川で大洪水がありました。利根川も荒川も堤防が切れて、東京の東3分の1くらいが水没したのですね。これではならじ、当時は帝都といいましたが、帝都を守るには荒川に放水路を掘ることだというので、その大工事に青山は参画します。
 その最中、信濃川の大河津で大きな事故が起こります。それは昭和2年6月24日のことです。その大きな事故で青山は内務省の新潟土木出張所長、現在でいいますと北陸地方整備局長ですが、新潟土木出張所長に任ぜられて大河津修復の最高責任者となり、その現場の主任、今でいうと信濃川上流工事事務所長でしょうか、それが宮本武之輔でありました。青山・宮本のペアで大河津分水という大放水路工事が仕上がります。
 お手元に年表がございます。これは、今日の登場人物、青山、八田、宮本が生きていたのはどのような時代だったか、下には歴史上の重要な出来事が載せてありますのでご参照ください。

 一番上に広井勇があります。
 主人公は青山、八田、宮本ですけれども、いずれも広井勇のお弟子さんです。お弟子さんというか、広井勇の精神をよく体して生涯を送った典型的な人物です。
 ですから、この映画を通して流れているのは、広井勇の技術者精神あるいは人生観、責任感というべきものでありましょう。実は、先ほどご紹介いただきました映画『日本の近代土木を築いた人々』(平成13年 企画:大成建設、監督:田部純正、制作:日映企画 第75回キネマ旬報文化映画部門第一位、第20回土木学会映画コンクール会長特別賞)で紹介した5人(古市公威、井上 勝、田辺朔郎、沖野忠雄、広井 勇)は、今日の3人より一世代前、江戸時代末期に生まれた人たちです。今日の3人は全部、明治に生まれた人たちで、そして日露戦争と何らかの関係があります。
 というのは、日露戦争との時間的な関係は、青山については申し上げたとおりですが、八田與一が金沢の第四高等学校に入った年に日露戦争が始まっています。その後に来るのが宮本武之輔ですが、いずれも広井が東京大学の土木工学科の主任教授のときです。
 広井の若い頃の大きな仕事として、小樽の北防波堤があります。そういう共通項があるので、この映画の冒頭、パナマ地峡の空撮、タイトルに続いて、広井の紹介があります。小樽の北防波堤は荒波の中で非常に苦労した工事でした。その荒波と出来上がった北防波堤が映ります。それは詳しいナレーションはありませんけれど、広井勇の若い頃の業績です。この小樽の北防波堤というのは、アジアで初めて、外海の荒海に耐える堤防です。それまで、明治になってからいろいろ防波堤を作ろうとするが、次々に失敗します。特に、野蒜港などは大失敗するのですね。大久保利通が日本は貿易立国で行かねばならない、それにはアメリカに渡れるような大きな船が出入りできる立派な港を作るべきであるということで野蒜に港を作って、貿易立国日本の象徴にしようと思ったけれども、作った翌年に暴風雨でやられてしまう。広井の小樽の防波堤をもって、やっと日本の近代港湾技術は確立します。
 コンクリートの防波堤を作るために、広井は100年先までのテストピースを何万本と作るのです。当時、防波堤にコンクーリートを使うのは初めてのことです。したがって耐久力がわからない。5年後は大丈夫だろうか、100年経っても大丈夫だろうか、全くわからない。しかし、広井には100年後まで自分が作ったものには責任を持たなくてはいけないという強い責任感があったのですね。したがって、100年間のテストピースを作って、今なお小樽ではそのテストピースを昔の機械で壊してその耐久度を測っております。
 重要なことは、土木事業というのは、それこそ後世への最大遺物とするには、100年経ったら壊れたというのでは何にもならないわけで、100年後にも大丈夫かということが広井の頭にはあったのですね。初めて作る大防波堤ですから、工事中にも彼は心配だった。ですから広井は、冬の季節風の荒れ狂うときには、夜中にも起きて、工事中の防波堤へ行って、それをしげしげと眺めた。心配で心配でたまらなかったそうです。そのような自分の仕事の意義、そして責任感ですね。
 広井は北海道大学から東大(*工科大学学長古市公威が抜擢したと云われる)がスカウトしまして、明治32年から大正8年まで東京大学におりますが、その間もちろん土木工学の最新知識を教えました。小樽の経験がありますから港湾工学、初めてコンクリートを使いましたから日本で最初の鉄筋コンクリートエ学の講義、関門海峡に吊り橋を設計していますから橋梁工学、河川工学。今は専門分化していますから、そんなにいろいろなことができる人はいません。明治はそういう時代でした。また、在任中には不静定理論の大論文も書いていますが、論文を書くとか講義をするのは大学教授としては当たり前のことで、広井が偉かったのは技術者とはどう生くべきであるか、技術者の持つべき責任感のあり方を教えた。そこが一番重要なことだったと思います。それは講義室で講義するようなものではないですね。講義室で「責任感を持て」などと言っても、当たり前の話で、どうしていいかわからない。たぶん、彼の生き方でしょう。
 広井勇は、1928年に亡くなっております。私はその前の年に生まれておりますから、もちろんお目にかかってはおりません。お目にかかっても、こっちは1歳ですから、わけがわからなかったでしょうけれど。私が若い頃、東京大学の助教授の頃、長老教授は広井先生に教わったので、広井先生の噂は随分聞かされました。何も広井さんだけが教授であったわけではないのですが、大勢の教授がおられたけれど、その頃の長老教授が昔の話をするともっぱら広井さんの話でした。やはり印象が強かったのでしょう。恐かったとか厳しかったとか、一面大変優しかったとか、講義に遅れてくるような学生がいると、講義室からさっさと出ていったそうです。それから、講義中の私語は最近では当たり前の現象になったようですが、広井先生は怒って大学の講義は寄席ではないと言って出ていったそうです。そうすると、学生が懸命に追いかけていって、申し訳なかったといって呼び戻した。今ですと、先生が出ていくと休講だと言って喜ぶかどうかわかりませんが、何せ100年も前の明治のことですから現在では当てはまらないことが多いと思います。
 そして、広井教授は毎日、寝る前にはベッドに正座して、明かりを消して一日を振り返って、今日は一日精魂込めて学生を教育したか、小樽の工事のときは今日一日の工事に誤りはなかったかと反省をして、翌日の生活の糧にしたそうです。凡人はベッドの上ではすぐ寝るのが当たり前で、考えようとしても考える種がないのではないですかね。そういう生き方が映ったのですね。
 たとえば、青山士は昭和11年に内務省の技監で退官され磐田で過ごされましたが、大きな台風がやって来ると心配になって、磐田から夜行列車で荒川放水路に駆けつけて、自分が作った放水路をじっくり眺めていたそうです。これはやはり、広井が小樽港を作ったときの精神、責任感ですね。自分が作ったものには自分が生きている間は責任を持たねばならないという責任感。そういう技術者のあり方を広井は弟子たちに教えた。その典型例として、この3人が紹介されるわけです。
 私は助教授時代の1961年、青山さんの亡くなる2年前、磐田の青山さんのお宅をお訪ねしてお話をする機会を得たことは大変幸いなことですし、若い頃の私の人生観に強烈な印象を与えられました。青山さんに、パナマ運河のこと、あるいは大河津分水の記念碑のこと、いろいろなことをお伺いいたしました。青山さんの後ろの書棚には、シュバイツァー全集、内村鑑三全集がずらっと並んでいました。シュバイツァー全集にしろ内村鑑三全集にしろ、青山さんの書棚にあったことは幸福だったでしょうね。これらの全集は、まさに所を得たというような顔をして青山さんの後ろに並んでおりました。
 私はこの映画の関係で、去年の1月、パナマ運河に行きました。パナマにパナマ運河博物館があるのですが、そこには青山士コーナーがございます。青山士の写真が飾られていて、パナマ運河工事に日本からはせ参じてくださった立派なエンジニアがいたということで、パナマでの青山士の知名度は大変高い。そして、パナマの日本人学校へ行きました。日本人学校で青山士を題材にした演劇を生徒さんたちがやったということを聞きましたので、そのビデオを拝見しました。日本人学校のそういう演劇は在留邦人を集めるそうですから、パナマの日本人の間では青山士の知名度は高いですよ。その日本人学校の演劇の指導は三宅雅子さんがなさったそうです。
 私は常々思うのですが、先ほど細見河川部長(中部地方整備局)もおっしゃっていましたけれども、一般の日本人で青山士とか八田與一とか宮本武之輔を知っている人がどれほどいるだろうか。残念に思いますね。せめてパナマにおけるくらいは青山士の名前が日本人の常識になってほしい。
 実は私、明日、静岡県磐田市でこの会を開きます。この映画を作った後、磐田市の方からメールが入りまして、青山士という立派な人が郷里から出たことを初めて知った、磐田市の大部分の市民はジュビロの選手はよく知っているけれども青山士を知らないということなので、それは残念なことだと思いますので、少し運動を起こさなければと思っているわけです。
 大河津分水の現場を担当した宮本武之輔は青山士と同じく優れた上木技術者ですが、生き方とか人生観は青山とはかなり異なったようです。青山は敬度なクリスチャンで、内村・広井の精神を受け継いで、それを人生観にしていた人ですから、非常に清潔な一生を送った方です。ただ、昔部下だった方に伺いますと窮屈だったようですね。そして、部下の就職など細かいことは世話しなかったようです。ですから、部下にとってはある意味では近づき難い存在だったようです。





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最終更新日  2017年01月28日 16時32分48秒
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