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2017年01月29日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
〇明治10年10月に與一は台湾総督府技手を拝命し、土木局土木課に勤務した。土木課長山形要助は與一に台湾視察、特に打狗(タークー:高雄)を中心とした南部の開発について視察を命じた。(p.53)

〇視察を終えて台北に帰った與一は特に打狗の開発について詳しく書いた報告書をまとめた。当時の打狗は低湿地で港が造られると市街地全体が港より低くなり、雨が降ると排水が悪く浸水することが多かった。
その対策として、「市街地全体に土盛りをして、雨がいくら降っても浸水しないようにする必要がある」と、計画書に予算書を添えて山形課長に提出した。山形課長は帝国工科大学土木課卒業で與一の先輩であり、「面白い計画案」だと認めたが、膨大な予算の数字に驚き、「もう少し現実性のある計画書を出せ」と計画書を突き返した。後日、高雄の第二期築港工事に際し、広範囲に土地の埋め立てを行い市街地を高くして、與一の計画の先見性が証明される。(p.56)

〇大正3年(1914)與一は総督府技師に昇進し、勤務先も土木課衛生工事係に替った。衛生工事係は台湾の主要都市に上水道工事を行い、飲料水の確保を通じて衛生的な生活を営むことができるようにすると共に、下水道工事をも実施して伝染病を食い止めるという仕事をしていた。
 総督府は領台した翌年の明治29年(1896)6月、上下水道整備工事のため、外国人技師バルトンを招聘した。バルトンはイギリスのエジンバラ出身の技師で、帝国工科大学教授として、衛生土木工事に関する講義をするかたわら、内務省衛生局顧問技師として、東京、大阪、神戸、下関、仙台、名古屋、広島の下水道工事の設計や指導を行い、後に「日本上下水道育ての親」と言われる。9年間の任期を終え大学を退官したバルトンへ、当時台湾総督府の衛生顧問であった後藤新平が台湾の衛生工事の設計、指導を依頼した。
 バルトンは台湾に教え子の土木技師・浜野弥四郎を伴っていった。バルトンは浜野と共に台北上下水道計画調査のため台北市街を視察し、台北の下水道を設計し工事の指導を行った。渡台3年後の明治3 2年バルトンはマラリヤと赤痢にかかり、43歳で亡くなる。
 バルトン亡き後の台湾の上下水道の指導者は浜野で、台北の上水道は明治40年に着工し、2年後に竣工した。基隆は明治42年、打狗は42年、嘉義は44年、台南は與一が衛生工事係になった大正3年に着工された。
 浜野技師は與一を台南上水道工事に従事された。台南上水道の水源は、曾文渓であり、後に與一が造る烏山頭ダムの水源になる川である。與一は曾文渓から台南にまたがる地形-62に精通して、水利工事を実地に学ぶ。(p.52-62)

〇大正4年5月、佐久間総督に替り、安東貞美大将が総督として赴任した。安東は、民政長官に下村宏を抜擢した。下村は、東京帝大法科大学を卒業し、ベルギーに学んで貯金制度を研究し、帰国後逓信省で、郵便、簡易保険制度を確立していた。
 上水道工事に専念していた與一は、大正5年5月、総督府から南方の用水施設の視察を命ぜられ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、シンガポール、フィッリピン、アモイ、香港を見て回った。
 2ヶ月近い視察を終えて台湾に帰った與一は報告書を提出した。
 8月の人事異動で與一は土木課監査係を拝命し、発電灌漑工事を担当する。
 下村民政局長は地方長官会議で「米の増産適地はないか」と発言し、台北市の南、新竹州桃園の高原3万3千ヘクタールの地域の灌漑工事が企画された。桃園埤圳(とうえんひしゅう)と名付けられた灌漑工事は、桃園高原の2万2千ヘクタールに良田を得る目的で企画され、用水施設の視察もそのためにものであった。
 與一は若手の技師と共に山に入り、調査し、短期間で基本設計書を作り上げた。
 この基本設計書は、淡水河の上流、石門の地に取水口を設け、約20キロメートルの導水路を造り、この導水路の途中に貯水池を設け、ここから幹線、支線、分線の給水路を通して、河川の水と雨水を利用して灌漑するというもので、石門取水による溜池灌漑方式をとった。
 この基本計画は総督府で認められ、大正5年11月に着工された。
 トンネルは7カ所、延長14.6キロメートル、暗渠、開渠数13カ所で延長5.3キロメートル、貯水池数231か所、水路の総延長282キロメートルで、竣功まで9年間を要した。総事業費770万4千余円であった。この灌漑工事によって計画どおり2万2千ヘクタールの良田が得られた。
 この工事が官設による最後の灌漑工事となった。

〇大正6年(1917)土木局長になっていた山形要助から與一は呼び出しを受け、調査を依頼された。ひとつは水力発電のための水源を見つけること、もう一つは急水渓に灌漑用ダムを作って灌漑できるかであった。
 水力発電のための水源調査は山形局長の発送であった、山形局長は「打狗築港の上、自由港たらしめ、台湾南部の開発を進めるべし」という持論を語っていた。しかし打狗が発展すれば、電力が不足し、発展が阻害される。そこで新たに大規模な水力発電所を作ることが急務として水源探しを依頼した。
 同時に嘉義庁長の津田毅一が、桃園捭圳の着工を知って「急水渓にダムの適地あり、桃園捭圳の如き灌漑施設と水路を造れば、米の増産間違いなし。至急調査されたし」という申請を総督府に提出した。総督府としても下村長官が地方官会議で「米の増産適地はないか」と無視できず、土木部に調査を依頼した。山形局長は新たな灌漑工事には乗り気ではなかったが、水源調査のついでに行えば面目が立つと考えた。
 與一は桃園捭圳の工事を指示する一方、技師数名を連れて、水源調査と急水渓のダム調査にでかけた。この調査の結果、水力発電の水源には日月潭が最適地であり、発電所建設に有利であるとした。また、急水渓のダム調査については、貯水能力が十分ではなく灌漑面積も満足するほど得られないことがわかった。與一は急水渓に代わるダムの適地を求めて調査した。調査に当って、過去に水利工事を実施した遺跡がないか調べた。その結果、官田渓の上流の烏山頭と呼ばれる土地にオランダ時代や清朝時代の小さな遺跡があることが分った。そこで官田渓の上流と、亀重渓の上流にも適地が見つかった。
 與一の基本構想は「官田渓、亀重渓にダムを築き、水路を敷いて嘉南平原に一大灌漑工事を行うと共に、排水工事を行えば、十万ヘクタール近い土地が改良でき、洪水も水不足も、塩害も解決した上に米が獲れるようになり、7万5千トンもの食糧増産ができる。」というものであった。(p.66-70)

〇與一は調査結果をまとめあげた計画書を山形局長に提出し、桃園埤圳の工事の進み具合を見終わると、結婚のために金沢に帰省した。
大正6年8月14日、與一は米村外代樹と結婚した。與一31歳、外代樹16歳であった。外代樹の父は、米山吉太郎という医者で、後に医師会長、県会議員になっている。外代樹は金沢第一高等女学校を首席で卒業したばかりであった。八田家では三男の医者の智證が交渉に行った。米村家では始め乗り気ではなく、特に外代樹の母は反対した。父は「外代樹が決めたことだから」と説き伏せて承知した。結婚した二人は日光や伊香保に新婚旅行に行き、金沢に帰るとすぐに台湾へ向けて出発した。(p.73-76)





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最終更新日  2017年01月29日 17時04分08秒
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