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カテゴリ:広井勇&八田與一
日台の架け橋・百年ダムを造った男 齋藤充功
〇四高時代に、口伝による與一のエピソードに、一中卒業者による久保校長の銅像建設にまつわる話がある。 それは、銅像の建設資金が不足したので久保校長の義兄に当る大阪商船社長の中橋徳三郎に同窓会が建設資金の援助を頼んだところ断られ、幹事有志が憤慨したという。しかし、與一の意見は次のようなものであった。 「久保校長の徳を讃えるための事業ならあくまで子弟の力で完成させるべきである。資金不足で故校長の縁者に援助を受けたとなれば故人の徳を傷つけることになり、中橋さんは恐らくそのような考えから援助を謝絶したと思われる。銅像建設はあくまで同窓生と生徒の寄付のみで行うもので、どうしても資金が不足となれば中橋さんに事情を話して同窓会に寄付をお願いすれば中橋さんも応じてくれると思う」 結果は與一が述べた意見の通り、中橋に寄付を頼んだところ快諾してくれ、同窓会に多額の寄付をしてくれたという。(p.24-25) 〇1940年、台湾の国策会社の一つであった台湾拓殖会社に勤めていた三日月直之は、與一から直接、台湾行きの理由を聞いていた。 「台拓(台湾拓殖会社)に入社して三年目の26歳のときでしたか、私が八田さんと初めて会ったのは総督府の土木課の部屋でした。当時、八田さんは技師の最高位の勅任技師になっていました。訪ねたのは台拓が主催していた技術懇談会の講師を依頼にいった時で、その際、八田さんは総督府に務めた理由を『朝鮮は帝大出の技師がゴロゴロしていて技手で仕官しても、仕事は末端の図面引き程度と聞いていた。それなら、台湾の方が大きな仕事ができるし、それに技手の身分でも腕を振るうことができると面接官に言われ、技術者としての技量を試してみたいと思った』と語ってくれました。五十過ぎの八田さんが若造の私に、なんのてらいもなくこんな話をしてくれて、私は感激しましたね。」(p.16) 〇與一は1917年8月に米村外代樹(とよき)と結婚した。 與一は今町の兄から送られてきた当時16歳の外代樹の一枚の見合い写真だけで結婚を決断した。しかし、米村家の家族や親族は、與一が帝大出の技師とはいえ、歳が15歳も離れていることと、任地が遠隔地台湾ということから当初この結婚に反対した。しかし與一の写真と釣書きを見た外代樹は、與一との結婚を自分自身で決めた。そして最後は父親の吉太郎が周囲を説得してこの結婚を成就させた。 『水明かり』に米村吉太郎に結婚話をもちかけたときの経緯を兄・智證が語っている。 「台湾の弟が30を過ぎたので嫁を貰わなければならないが、適当な候補者がいませんか。弟は私を信頼して金沢地方の出身で私の気に入るのならばよいと言っている。外に条件はない。米村さんはちょっと考えただけで『私の娘はいかがでしょう。今年女学校を卒業したので17歳で年齢が少しちがうが、似合うように思う』あなたの娘さんで、あなたがそうお考えなさるならば申し分なしでしょう。という訳で実質的には、なこうどなしに即座に話が大体纏まったのである。 しかし、勤務地が台湾とか満州というと、娘やその親たちが躊躇するのが多かったのである。しかるに米村さんが即座にご自分の娘を推挙せられたのは我が娘を信じたからでしょう』」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年01月31日 01時22分28秒
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