その6聞こえちゃいるけど聞こえないこの本を書こうと思ったのは、あるビジネス書分野の出版社の社長と話をしていた時だ。 資金繰りが苦しくて副業に古本屋を開きたいと言って来た。 「本業の延長以外はやらないほうがいい。隣の芝生は青く見えるが、どんな商売だってそれはそれで大変なんだよ」と言ったのだが、どうも決心は変わりそうもない。 経費をかけないで本業の仕事をやる方法を考えるべきだ、と言ってから自分で本を書いたらと付け加えた。 自分で書けば印税や原稿料もかからない。 ネタがないという話から、それでは俺の経験を話してやるからそれを本にしたら、とついつい口が滑ってしまった。 話をした手前、協力してやらなければならない。 すこしは書きやすいように、最初の分だけでも自分でまとめてみるかと書き始めた。 しばらくして聞いてみると、やはり副業の店を始めると言う。 それも最初に聞いた話よりも規模が大幅に膨らんでいる。 店を始めることによって転業資金の融資が受けられるのだと言う。 要するに借入れをするための事業拡大だ。 その後の運転資金の予定などを聞くのだがさっぱり要領を得ない。 彼には可哀相だが、たぶんうまくは行かないだろう。 たとえうまく行ったとしても、そのことが奈落の底への直線道路を、さらに加速を付けて突っ走ることになると思う。 このような状況では、私が原稿をまとめて出版させても、印刷代などの債務が増えるだけに終わってしまう可能性がある。 ままよ、ここまで書いたのだから、書き上げて彼にも読ませてみるか、と思い立った。 こんなことのあった日に、倒産前に付き合っていただいていた印刷会社の社長のことを思い出した。 債権者集会で、「お父さんの家をなくしてまで再建するのはおかしい。そんな親不孝には協力できない」と発言した人だ。 「高石さんの今までのやり方を見ていると、また同じことを繰り返す心配がある」とも言われた。 実際、この社長の指摘どおり、失敗を繰り返した。 倒産前の二年間ほど、印刷の仕事をやっていただいていたのだが、けっこう高齢だったせいもあるが、堅実な経営をしてきた人だった。 顔を会わせるたびに、「高石さん、突っ走り過ぎだよ。無理をし過ぎていますよ」と忠告されていた。 「いえ、今度の企画は目算をキッチリと立てています」と説明するのだが、正直なところ大した目算などない。 ともかく走り続けていなければつまづいてしまうと、自分で自分に、今度こそうまく行くと言い聞かせているに過ぎないのだ。 この社長の言うことは、まったくそのとおりで、反論の余地もないはずなのに、「いいえ違うんです。任せてください」と言い続けていた。 聞こえているのに聞こえないふりをする。 そうでもしなければ自分の気力が保てない。 そんな日々があったことを思い出していた。 この本は自分で、一字一句すべて書いてみよう。 ここへ来て、すこしは自分のしでかしたことも冷静に見れるようになった気がした。 申し訳ないことに、あれほど親身になっていただいていたこの社長のことも、ここ数年忘れていた。 事業を始めてから倒産するまでの七年間、いろいろなことがあったのに、今ではほとんど思い出せない。 がむしゃらに、夢中になって突っ走っていたということもあるが、恥ずかしくて、思い出すことを自分の頭が拒否してしまうのだ。 ちょうど倒産してから七年(この原稿を書いてからまた七年が過ぎました)が経った。 アッという間の七年間だった。 事業を始めて十四年間のうち、事業拡大に突っ走ったのが七年、再建で地獄の底を這いずり回ってきたのが七年。 せめて後のほうの七年間の出来事だけは、自分の胸にしっかりと留めておこうと思う。 それが迷惑をかけたり、お世話になった人たちへのせめてものお詫びだと思うからだ。 「最近の若い奴らは」と思った瞬間に 中・高年齢層の人たちには、何のことかわからないかもしれないが、倒産の直前にディスコダンスのハウツービデオを作ったのがキッカケで、ヒップホップのDJやラッパー、ダンサーなどをやっている連中との付き合いが出来た。 その頃は十代、二十代だった彼らもすでに二十代、三十代となり、いっぱしに若い連中を仕切っている。 元々は原宿のホコ天(歩行者天国のこと)にたむろしていたような連中だが、自分たちのライフスタイルにこだわり、いまだにライブハウスやクラブ(ブのところで音を下げて発音する)にたむろしたり、自分たちのステージに出演したりしている。 親父のように思われたのだろうか。 なぜか彼らのうちの何人かが、私が倒産した後も、彼らのパーティーに呼んでくれたり、レコーディングなどの仕事の相談を持って来てくれるようになった。 最初のうちは気分転換の意味もあり、ほかに行くところもなかったせいか、時どき顔を出していた。 スポーツ大好き人間で比較的体育会系ともいえる私の息子たちなどには、アンダーグラウンドの彼らと付き合うことを、「何で?」と馬鹿にされるのだが、飛び込んでみると、なるほどと彼らの生態も見えてくる。 彼らの口から、 「社長、もし若い連中が口論してても止めに入ったりしないでよネ。最近の若い奴らときたら我慢ができねえんでサー、すぐにナイフを抜くんだから」 「社長にもしものことがあったら俺ら、困るんだよ」 「ヤバイとこへ出かける時は声掛けてよ。付き合ったげるからサー」 と、一丁前に忠告してくる。 彼らのライブが終わっても、階段に腰かけ、虚ろに座り続けている女の子たちも多い。 明け方まで座り続けている。 「私サーァ、これでも学校の成績だけは凄くいいんだよ。東大行くかもしれないよ。卒業したら雇ってくれる」 年を聞いたら中学三年生だという。 成績が下がらなくて、進学のための勉強をキッチリとやっていれば親は文句を言わないという。 何度も何度も、彼らのことを見ているうちに、『みんな寂しいんだ。家にも、学校にも、塾にも、自分の居場所が見つからないんだ』と思うようになってきた。 友だちが欲しくても、どのようにすればいいのかわからない。 自分の息子たちよりさらに年下の彼ら、彼女らを見ていると、自分たちのフィーリングに合う、こんなところが彼らの隠れ家なんだと気が付いた。 でも将来、彼らがこの国の主人公であることは疑いのない事実なのだ。 太古の昔から「最近の若い者は」と言われ続けてきたようだが、今の子供たちの置かれている状況や、今の子供たちの心情を理解できなくて、将来のビジネスなんて考えられないではないか。 何でもビジネスに結びつけるのは、守銭奴みたいで後ろ暗いが、虚業でなく実業の世界で生きていくからには、胸を張ってビジネスとしての見方に徹したい。 いつのことになるのかわからないが、いずれ雑誌を創刊したい。 タイトルはもう決まっている『ストリートカルチャーマガジン:TOKYOアンダーグラウンド』と名付けた。 鏡もなく、自分で自分の姿が見えないものだから、きょうも、若いつもりで彼らと一緒になって騒いでいる。 五十を過ぎてこんなことやっているのは私ぐらいだと思うが、胸がキュンとなったり、ドキドキするような、若い頃の感覚が今でも残っていることが嬉しくなる。 周りから見れば何を馬鹿なことをと笑われるのもわかってはいるのだが。 やりたいこと、やりたくないこと 倒産してから二、三年経ったころだったと思う。 皆さんもご存じの松田聖子の暴露本、ジェフ・ニコルスの第二弾目の本を高石書房で出さないか、製作費はこちらで持つという話が飛び込んできた。 第一弾目も三十二万部売れている。出版業界では、柳の下にはドジョウが三匹はいるという。 無理さえしなければ売れることは間違いない。 意気揚々と女房に話したのだが、喜ぶかと思いきや、「あなた、こんな本を出すために今まで苦労してきたの」と言い出した。 冷静になって考えてみると、やはり抵抗がある。 金もなく、売る商品もほとんどなかった状況で、断腸の思いではあったが「そうだよな、諦めるか」と決めた。 その頃、神戸のほうの出版社の社長が、時どき私の会社へ顔を出していた。 私のところの債権者の紹介で、「彼のところも大変なんだ。相談に乗ってやってくれ」と頼まれていたのだ。 当時は彼と、後は女の子一人の小さな出版社だった。 自分のところで出さない代わりに、彼を紹介することにした。 どの程度売れたか知らないが、出版されてからそれなりの紹介料を貰ってしまったので同罪かもしれない。 その後、この出版社は暴露本の出版社として有名になり、この社長も時どきテレビや新聞に登場するまでになった。 一部の債権者の方からは、「社長、まだまだ甘いよ。儲かるとわかっていればやるべきだったよ」とは言われたが、やはり手を出さなくて良かったと今でも思っている。 最初のうちは、彼のところの営業も高石書房で引き受けていたのだが、いかにも暴露本という本が増えてくる。 彼の会社も急激に人数も増えてきたので、縁を切ることにした。 「営業のことがわかる人間がいない」と言っていたので、私のところの社員、F君を回すことにした。 彼への給料も遅れに遅れていた。 これ以上、高石書房に置いていても可哀相なので、この神戸の出版社が東京支社を開設したのを期に、面倒をみてもらうことにしたのだ。 高石書房の本の図書目録を送って欲しいとの連絡も時どき飛び込んでくる。 残念ながら図書目録は作っていない。作れないのだ。 倒産以降、売れるからといって暴露本のようなものは作っていないにしろ、経費のかからない本や自費出版絡みの本ばかりを作ってきたので、これが私のところの本ですと胸を張って紹介できるものが極端に減った。 最近になってようやく、「これが私のところの本です」と言えるものがようやく一冊出来た。韓国の大統領、金大中氏の自伝だ。 韓国でもスキーが普及してきたそうで、私のところのスキーの実用書を韓国版で出したいと言って来た在日韓国人のKさんが、韓国から持ち込んできた話だった。 「どこか大手の出版社で、この本を出版してくれるところはないか」との相談だった。 ホテルグランドパレスでの拉致事件や、その後の軍事法廷での死刑宣告など、波乱万丈の人生を送って大統領にまで登りつめた人の自伝なら、ぜひ自分で手掛けてみたい。 ぜひ我が社でと無理を言って交渉してもらった。 ようやく了解を得たのだが、翻訳はKさん自身がやってくれるという。 それでは日本人の感覚で表現するために、「私が自分でリライトしますよ」ということになった。 毎日仕事を終えてから、夜中の二時、三時、時にはそのまま徹夜でワープロを叩き続けた。 涙が止まらなくなるのだ。 それこそ半端ではない彼の生き方が、リライトをしていて伝わってくる。 いつのまにか金大中氏本人になりきったようになって、涙ぐみながらキーボードを叩いている私がいた。 国と民族は違っていても、気持ちは十分過ぎるぐらい伝わってくる。 やはり、出版の仕事を続けていて本当に良かったと思えた。 しかし、残念ながら真面目な本はなかなか売れない。 この本への思い入れが強過ぎたせいか、印刷部数を多くし過ぎて、在庫の山を抱えてしまった。 それでも、この本だけは廃棄処分にはしたくない。 そんな贅沢を言っていられる状況ではないのだが、一つぐらいワガママも許して欲しいと、今もすこしずつ売り続けている。 本当にいいの? 社員が次々戻ってくる 倒産のあとにも残ってくれた社員が何人かいた。神戸の出版社へ引き取ってもらったF君や私の戦友ともいえるH編集部長だ。 H部長は私とは三十年来の付き合いで、彼のほうが二十歳も年上なのに、独立以来一貫して、「社長、社長」と私を立てて協力してもらっていた。 さんざん苦労をさせたのに、いまだに何も返せない。 他にもS君という一風変わったスタッフがいる。 倒産してからもパソコンを使っての業務システム作りや運用を一手に引き受けてやってきた。 給料は遅配を繰り返し、累積未払いもドンドン増えていく。 思い余って、先ほどのF君は神戸の出版社へ送り込み、S君には「君は若いんだから、再就職も出来るだろう」と辞めてもらうことにした。 二年ほど経って、パソコンソフトのウインドウズ95の登場によって、我が社のパソコンシステムも手直しが必要になってきた。 私はもちろん、女房だってそんなことは出来ない。 土・日だけでもいいからとS君に手伝ってもらうことにした。 久しぶりに顔を出した彼に聞いてみると、高石書房を辞めてからも、何にもしていないそうだ。 「高石書房以外のところでは働く気もしないので、家の内装をやったり、本棚を作ったりしてました」とシラッと言う。 就職活動もやったことがないとも言う。 なんのことはない、そのまま再び高石書房で働くことになってしまった。 そのうち、F君も高石書房へ戻りたいと言ってきた。営業畑の人間ではあるが、人が良すぎて無理な営業が出来ない。 コツコツと本屋さんを回って注文を取ってくるのだが、無理な押し込みをしないものだから、いまいちパッとしない。 やはり暴露本の出版社のようなところの営業には向かなかったようだ。 結局、F君には、「歩合でしか払えないよ」と我慢してもらって戻ってくることになった。 次には、私の長男が入ってきた。親父のやることは危なっかしくて見ていられないと言うのだ。 社長である私が、出稼ぎならぬ他社の役員を掛け持ちなものだからほとんど自分の会社へ顔を出す暇がない。 高石書房は彼らと女房を加えたスタッフだけで頑張っている。 家庭の延長のような、いつでも親子喧嘩をやっているような騒ぎを続けている。 明日へ向かって、リターンマッチ 倒産する二年ほど前だったろうか、知り合いのデザイン事務所の紹介でO君という青年が訪ねて来た。 最近まで小学館で出していた『GORO』という雑誌のヌード写真などを撮り続けていたという。 もうヌード写真を撮ることにはウンザリしたので『GORO』の廃刊を機に、別の分野の写真を撮りたいという。 聞いてみると、その前には美術品の写真なども撮っていたそうで、経験も申し分ない。 私のところでは、主にはスキーなどのスポーツを中心とした実用書を作っていたので、ぜひそのような仕事をさせてくれという。 「あまり払えないよ」と断って仕事をしてもらった。 腕はいいし、それにも増して仕事熱心なものだから、私の高石書房で写真の仕事があればすべて彼に任せることにした。 可哀相だが格安のギャラで働いてもらった。 倒産直前に彼の持ち込み企画の写真集を手掛けたこともあって、倒産時には二、三百万円の債務を残してしまった。 安いギャラでもこれだけ溜まっていたのだから、彼の被害も計り知れない。 せめてもの罪滅ぼしにと、知り合いの出版社を紹介したりはしたものの、債務はそのまま今も手つかずのままである。 そんな彼が、次々と企画を持ち込んで来る。 世話になったからだというが、迷惑をかけた記憶はあっても、世話をした記憶はない。 「今、いろんな出版社の仕事ができるようになったのも、高石さんのところの仕事をやらせてもらったお陰です」と言ってくれる。 たびたび持ち込まれる企画に対しては、 「今は本を作る資金がないし、入金を当て込んで本を作って、もし支払いが滞ったら俺も立場がなくなるよ。前の分も滞っているし」 と言うのだが、それでも次々と企画を持ち込んで来てくれる。 そのうちに、「制作費は自分のほうで持ちます。リスクもうちが負担しますから、やりましょう」と新たな企画を持ち込んで来た。 「俺は人のリスクで仕事をするのは性に合わないんだよ。やるなら自分で責任を持ってやりたいんだ」とは言ってみたものの、ついには根負けしてしまった。 「ともかく高石さんと一緒に組んでやりたいんスよ。高石書房さんを軌道に乗せるために協力させてください」 常に彼のほうが低姿勢になって付き合ってくれている。 我ながら、本当に人には恵まれていると思う。 整理も、再建も、事業を始めることと変わりがない 倒産してから四、五年は、「事業が行きづまったのだがどうすればいいか」だとか、「取引き先から回収できなくなった。知恵を貸してくれ」などといった相談が多かった。 今でもその手の相談はあいも変わらず多いのだが、ここ二、三年は「事業を始めたいので相談に乗ってくれ」とか「出版社として取次口座を取りたいので方法を教えて欲しい」といった相談が増えてきた。 会社の身売りや、逆に会社の買収の相談も増えている。 世の中、何か変わってきたのかなとも思うが、不況続きの状況に変化もなく、私の身辺でもそれほど際立った変化は現われていない。 もしかしたら変わったのは自分自身ではないだろうかと思い始めた。 私のホームグラウンドである出版業で、倒産事件があって債権者集会に行くと、狭い業界だけに知っている顔によく出会う。 私自身が債権者でなく、債権者の代理人であったり、あるいは倒産した当事者から頼まれて出かけてきたのだ。 「アレ、お宅もまた」などと挨拶を交わしながら同席するわけだが、席上、「高石書房さんの時には、こんな場合どうしました」と話を振られることも多い。 特に再建を前提とした話になってくると、必ずお鉢が回ってくる。 先に『再建屋』だとか『事件屋』だとかの称号をもらったとは書いたものの、自分自身が倒産の当事者で、自分が事件を引き起こした張本人で、それもいまだに解決させていない状態での当事者だから、そのように言われるたびに複雑な心境になる。 「再建したのならいいんですが、ウチだってほとんど債務を返していないし、ジリ貧でこの後どうなるかもわからないし、参考になりませんよ」と前置きしてから話はするのだが、なぜか「よし、その方向でいこう」と話をまとめられてしまう。 ミニ『高石書房』版再建計画が次々と出来てしまうのである。 こんな会社が五、六社にもなってしまったが、申し訳ないが責任を負いかねる。 自信を持って言えるのは、『二度と手形を切らない、もうこれ以上借金をしない』の当たり前の二点を守って頑張れば、すこしづつでも債務が減っていくということだけなのだ。 最初、このような時に知り合った業者さんから、「お得意さんの編集プロダクションが出版社として再出発を考えているのだが相談に乗ってくれ」との話がきた。 出版社としての資金繰りの考え方や「手形は絶対ダメですよ」など、一般的な話だけをしたのだが、結局は事業の立ち上げまで手伝うことになってしまった。 勢いあまってこの会社の雇われ社長までも引き受けたが、これが大変な勉強になった。 自分の過去の失敗と、この間見てきた他社の失敗を、どうすれば避けられるかを考えるものだから、最初から堅実な方策を取ることになる。 自分で指示してやらせておきながら、「そうだったんだ。このようにすれば失敗しなかったんだ」と自分で納得して、感動さえしてしまう。 私が雇われ社長をしている間に、この会社のオーナーは長者番付の常連にまでなってしまった。 失敗は成功の母とはいうけれど、普通は一度失敗すると、二度とチャンスは巡ってこないようだ。 幸いなことに私には、何度もチャンスが巡ってきた。 また失敗しても次のチャンスが巡ってくる。 少々おっちょこちょいだが、周りの人に恵まれたお陰としか言いようがない。 同じ失敗さえしなければ、成功する確率が徐々に向上するのは当たり前だ。 今では、倒産した事業の整理も、再建も、そして事業を始めることも、運営することも、基本はまったく同じだと思うようになった。 同じ立場にならなくて、支援なんて出来っこない 現在、再建途上の高石書房の社長をやりながら、ほかにも何社かの社長を兼務している。 いくつもの社長と言っても、先に述べたように資金繰りで時間と神経は費やさず、情報収拾と企画と営業中心で動いているだけだから、よその経営者に比べれば暇を持て余しているくらいなのだ。 「あんた向いてるよ。コンサルタントを本職にしたら」とよく言われるが、好きな出版業から離れる気もないし、自分の会社の借金も返し切りたいし、何よりも自分の身体を張って生きていきたいのだ。 毎月、顧問料をくれる会社も出てきたが、相談に乗るからには経営に参画して、責任の一端を担いたい。 人の事業に横合いから口をさしはさむだけのコンサルタントは、どうも自分の性に合わないのだ。 次々と雇われ役員を引き受けたり、再建の手伝いに乗り出すものだから、例によって女房からは「そんな暇があれば」との叱責が飛んでくるのだが、今の世の中、中小企業がお山の大将で生き残れるわけがないと思っている。 お互いがお互いの経営の中まで飛び込み、一緒になって生き残りの方策を考える。 そこからしか新たなビジネスチャンスは生まれてこないように思えるのだ。 ベストパートナーになるためには、相手に何かを求める前に、自分をさらけ出し、共感を持ってくれる相手を探し出すしか方法はないだろう。 さまざまな出会いと、共に苦労を分かち合ってこそ、大きな渦のような世の中の流れを乗り越える事業集団としての連合艦隊が出来ると信じている。 そのためにも、一社でも多くの企業と、裸で付き合える関わり合いを持っていたいと思っているのである。 先に倒産の時のテクニックは、いろいろあると述べたが、常に最善だと思う道を選択していても、うまくいくとは限らないのが経営の常である。 事業家は競い合いながら仕事をしているのだから、みんながベストを尽くして死に物狂いの戦争を仕掛けてくる。 モアベターでは最初から戦にならない。 まして一般論で事業が運営できるなら、誰も苦労はしないのだ。 共に知恵を絞り、全力を傾けて経営を立て直す。 そのためには自分も身体を張って戦に臨むしか方法はないと思っている。 本当になくして困るものって何だろう 自分もそうだったが、倒産の時の経営者を見ていると、「なんで、こんなことにこだわるの」と言いたいようなことにしがみつく。 担保が目いっぱい入っていて、維持をしていても借金だけが増える自宅だとか、中にはライオンズクラブの役員、ボーイスカウトの役員の地位などといった訳のわからないものまであった。 現代人は、物を持ち過ぎたのかもしれない。 文明は生活に便利さをもたらしたと同時に、失うことの寂しさも持ち込んだようだ。 装飾品を身にまとい続け、今やその重みで崩れ落ちそうになっている。 失うことを恐いと思うから、何も出来なくなる。 産まれた時は裸、死んで行く時も裸一貫、これでいいのではないだろうか。 倒産した後、バス代がもったいないものだから、自宅から最寄りの駅まで歩いた。 その習慣は、今でも続いている。 春には、道端のタンポポを眺めたり、散りゆく桜の花びらを全身に受けとめたり、木洩れ陽の温かさを感じながら歩く。 夏には、小鳥やセミの鳴き声を聴き、秋には日一日と変わりゆく木の葉を眺めつつ歩いている。 霜柱の立つ日には、わざと霜柱の上をシャクシャクと音を立てながら歩く。 帰宅途中、ふと見上げたときに目に飛び込んだ三日月が余りにもきれいなので、酒屋に飛び込んで四合ビンを買って、公園のベンチで一人杯を傾けたこともある。 がむしゃらに事業の拡大に突っ走っていた頃は、気分転換に一坪農園を借りて野菜を植えたことも、ベランダに花を植えたこともあった。 クルマで海岸まで走り続けたこともあったのだが、自宅から駅までの街路樹がこんなにいとおしく思えたことはなかった。 今では、『本当になくして困るものは』と常に自問自答している。 仕事を通じての仲間たち、それ以外に何があるのだろう。 無理をして走り続けることで失うもののほうが、はるかに多いのではないだろうか。 倒産事件に遭遇した経営者の人たちには、『隠さない、逃げない、甘えない』と言い続けている。 その上で、誰が何と言おうと、居直ってでも自分の意思を通せとけしかけている。 わずかばかりの資産を、それも何の意味もない資産を失うまいと隠して、それが露見したために誰からも信用されなくなり最悪の事態を招いた経営者や、逃げるものだから追いかけられ酷い目にあった経営者、自分の責任を棚に上げて言い訳ばかりで誰からも相手にされなくなった経営者など、枚挙にいとまがない。 すべてを捨て去って、もう一度自分の足で立ち上がることが経営者の責任の取り方ではないだろうか。 そしてその後には、無駄のない、自分で本当に必要だと思われるものだけを一枚一枚身につけてゆく。 物質的に豊かなだけでなく、精神的にも豊かな経営者像を自分で作っていくことが求められているように思える。 ご同輩、事業の倒産なんてなかなか経験出来るものではない。 もし行きづまっているなら、それを千載一隅の好機にしなくてどうするか。 倒産状況に陥っていない経営者諸君、羨ましいだろうが、だからと言って、わざわざ倒産させることもない。 本を読めば疑似体験ができるのだから。 私は自分で自分の失敗をあざ笑っているが、あなたにも笑う権利がある。 なぜなら経営をするということは、多かれ少なかれ私と同じような経験を、形を変えて味わったはずなのだ。 そして常に倒産予備軍の位置にいる。 これから経営者になる不幸な方々には、せめて私の行きついたところまでは失敗しないで欲しい。 その先に、どのような課題があり、どのような方策や考え方があるのか、ぜひ実践の中で範を示して欲しいと思う。 舞台裏からの独白へつづく ジャンル別一覧
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