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2015.08.30
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カテゴリ:反日・歴史認識
<独占>南京大虐殺記念館を通して考える戦後70年(1/5)―あまりにも残酷な展示内容に体調を崩す見学者「どうして日中はうまくいかないのか」(上)

配信日時:2015年8月30日(日) 11時53分 レコードチャイナ

中国江蘇省南京市の龍江に住む趙さんの家から3キロほど離れた場所に、南京大虐殺記念館はある。昨年末には習近平(シー・ジンピン)国家主席がここを訪れ、「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」の式典を行った。同僚や友人から同館のうわさを聞いた趙さんは週末の空いた時間を利用し、参観してみることにした。

案の定、記念館の周囲には遠方から来た観光バスが並び、大勢の観光客らはガイドに引率されて1組、また1組と入場門をくぐっている。

趙さんは1975年生まれ、今年40歳だ。10歳の秋に学校行事で記念館を訪れたことを覚えている。当時はオープンしたばかりで周囲はひっそりとした雰囲気だった。以来、毎年のように春と秋に学校が組織する慰霊碑の清掃活動に参加したが、大学に入学してからは足が遠のいた。あれからもう20年になる。

展示室は、一瞬戸惑いを感じさせるような暗さだ。一度まぶたを閉じて、目を慣らしたくなる。陳列スペースには当時の日本の軍服や武器、書籍や文書が並んでいるが、最も目を引くのは東京日日新聞が報じた「百人斬り競争」の野田毅少尉と向井敏明少尉が常州(江蘇省)で撮影した写真の等身大パネルだ。金網に掛けられた人の頭もあり、見学者に正視できないほどの恐怖感を与える。

短時間の見学で気分が悪くなった趙さんは、途中で先に進むことを諦めた。建物の外に出た彼女がわれわれに語った言葉は、「あまりにも残酷。これほどの凄惨さとは想像もしていなかった」。そして、「鳥肌が立つような写真。一般の人には強烈すぎる。これを見て何も感じない人はいないでしょう」と続け、差し出された水を口にした。不快な汗もかいているようだ。取り出したティッシュで額をおさえ、息を整えた後で「幼い頃…そう、1980年代の中国、正確に言えば南京には反日感情などはなかったように思う。逆に当時は山口百恵と三浦友和のドラマにみんなが夢中になった。30年が過ぎ、台湾ほど親日的になれというのは無理だけど、これほどまでに反日ムードが漂っているのは異常。どうして中国と日本はうまくいかないのだろう」とつぶやいた。

実際のところ、40歳以上の中国人の中には趙さんのような疑問を持つ人が数多くいる。(記事/レコチャ取材班・編集/野谷)



<独占>南京大虐殺記念館を通して考える戦後70年(2/5)―記念館設立の背景には何があったのか?

配信日時:2015年8月31日(月) 7時20分 レコードチャイナ

現在40歳以上の中国人なら、1970、80年代の日中の蜜月時代を覚えているはずだ。ならば、なぜ南京大虐殺記念館の建設が持ち上がったのか?この事情を知る中国人は少ない。日本人だってきっと知らないだろう。記念館の準備チームの1人で、元副館長の段月萍(ドゥアン・ユエピン)氏がこの答えをわれわれに語ってくれた。記念館の建設は80年代の日本の国内事情と密接に関係しているという。

段月萍氏(1933年生まれ、女性、安徽省蕪湖市出身)は、幼い頃に日本軍による侵略を実際に体験した。4歳から父母と一緒に逃げ続ける生活を始め、その後南京大学で歴史学を専攻し、市政府に入庁。13年2月に「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館の設立とその影響」と題する文章を地元誌に発表した。文中で、南京大虐殺記念館設立の背景を詳しく紹介している。

1982年、日本の文部省(当時)は教科書検定で、日本の軍国主義者の中国侵略を「進出」に書き換えると伝えられた。中国に対する侵略や凄惨な南京大虐殺事件を否定しようとする行為だ。歴史の事実を隠ぺいしようとする日本の動きは、中国、特に30万人もが犠牲になった南京市民の強烈な不満を引き起こした。市民らは中国共産党南京市委員会や市政府に押し掛け、「歴史のため、未来のため、南京市民や中国国民のため、世界中の平和を愛する人々のため」と、南京大虐殺に関する史料の編さんや記念館、記念碑の設立を強く主張。死者を悼んで後世に伝えたいと訴えた。

1983年末、南京市委と市政府は江蘇省委員会、省人民政府の承諾を得て、記念館の建設準備に入る。当時、省や市の関係機関、南京駐留部隊の代表による「南京大虐殺」史料編さん、記念館・記念碑建設チームが立ち上げられ、下部組織の事務局が具体的な作業を任された。チームのトップには当時の張耀華(ジャン・ヤオホア)南京市長が就任。歴史専攻という学歴の段氏も呼ばれ、史料の収集、整理を担当することになった。

1985年2月3日、建設準備が進む中、トウ小平氏が同市を訪れ、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」と館名を揮毫(きごう)。旧暦の元旦に当たる2月20日にかつて虐殺現場となった場所で着工し、主な工事はわずか4カ月で完了した。そして、抗日戦争勝利40周年の1985年8月15日にオープン。これと同時に、市内17カ所に記念碑が設立された。(記事/レコチャ取材班・編集/野谷)




※https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%82%8A%E8%AA%A0

「南京大虐殺紀念館の建設要請
浜田幸一によると田邊が1980年代に南京市を訪れた際に南京大虐殺紀念館を建設するよう求めたという。浜田はこの要請や総評から南京市への3000万円の寄付によって同紀念館が建設されたと語っている[7]。」





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最終更新日  2015.09.01 19:47:30



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