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事件の真偽については正直言って分かりませんが、事件について書かれた米本氏の本を読んで疑問に思ったことがあります。
後藤から話を聞いたあと、荻窪に出向き、「荻窪フラワーホール」の場所を確認した。天沼陸橋のすぐそばにある古びた細長いマンションだった。 外から眺めると、八〇四号室の窓は開放され、布団やタオルケットなどが日干しにされていた。 晴れ渡った青空のもと、後藤の気持ちをよそに、布団やタオルケットは風になびき、ようやく解放されたが如く自由に揺れていた。 後藤氏の監禁現場とされるマンションは「荻窪フラワーホール」ではなく「荻窪フラワーホーム」です。 米本氏が後藤氏を取材したのは2月で、本の出版は7月ですが、米本氏は本当に現場に行って確認したのでしょうか? 荻窪フラワーホームはグーグルのストリートビューでも確認できます。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?msa=0&msid=111798832269232456971.000455d5a51421ab4d799&hl=ja&ie=UTF8&ll=35.70311,139.625923&spn=0,359.997237&z=19&layer=c&cbll=35.703037,139.625873&panoid=UbtUlgGazYkQc3UqSFc7aw&cbp=12,37.176454948147885,,1,-14.741987886931911 後藤氏が監禁されていたと言う804号室は最上階の南端ですが、斜め下の荻窪フラワーホーム704号室が売りに出ています。 http://e-room03.elpn.net/?mid=000234_h http://www.jpm-co.jp/detail.php?estate_cd=1559 http://www.sumai.mecyes.co.jp/bukken/Bukken_Popup.php?ID=128386&imgindex=2 1階~7階のベランダ側の部屋は五角形ですが、8階のベランダ側の部屋は長方形で、下階に比べてベランダが広い造りです。 柱の位置、窓、換気口は下階と同じ位置にあるので、後藤氏が監禁されていたとされる部屋は4帖程度の部屋。 後藤氏の母、兄、兄嫁、妹が暮らしていたとされる部屋は、窓数から見て6帖程度の部屋でしょう。 「180センチの長身の巨体が12年5ヶ月間マンションの1室に閉じ込められていた・・・。」この事実だけでも目ん玉が飛び出るぐらいびっくりしたのである。どんなに親不孝をしようとしたからと言ってもあまりにも考えられない、表現できないぐらい仰天びっくりの事件であったからだ。 http://blog.goo.ne.jp/cityboy1_001/e/0b88f26afb718fd5437755e3f34c1d1a SAKAさんは上記のように書いていますが、大人4人が6帖の一室で12年間生活していた事は、もっとびっくりでしょう。 母親はともかく、兄と妹と兄嫁が自分達の人生を犠牲にして、12年間も6帖の一室で暮らせるでしょうか? 米本氏の本の内容の一部は「拉致監禁をなくす会」のHPでも読めます。 http://rachi.info/category/6122318-1.html 音信不通となっていた兄から連絡があり、京王プラザホテルの一室に入ったところ、監禁された。 一流ホテルで監禁されたら、ホテル側が異変に気が付いて警察沙汰にならないものでしょうか? 翌年の九八年一月頃から、宮村峻が元信者を引き連れてやってくるようになった。 牧師さんは荻窪フラワーホームには来なかったようですが、牧師さんが説得しない保護(拉致)があるのでしょうか? 私は一番奥のベランダに面した部屋に連れて行かれ、普段はそこに居るように、部屋の襖は常に開放したままにするようにと宣告された。 私が激怒して、「畜生、出てやる、ここから飛び降りてやる」と、奥の部屋の窓に突進した。 窓の内側の障子が破れ、障子のサンが折れた。 ベランダ側の部屋は4帖の洋室ではなく和室だったのでしょうか? ○一年二月になると、私は〈このままでは、世の中から隔絶されたまま一生ここから出られない〉との押さえがたい不安感に襲われ、玄関目がけて突進し、脱出を試みるようになった。 あらん限りの力を尽くしたが、家族から取り押さえられてしまう。私は大声で「出せ」「助けてくれー」「警察を呼べ」と叫んだ。 そのたびに、家族は布団で私をくるみ、口を押さえつけた。息が出来なくなり、窒息しそうになった。 長期間の監禁によって、ほとんど運動する機会がなかったため、兄と一対一で揉み合いになっても、いつも取り押さえられ、羽交い締めにされた。 一緒に暮らしていた家族も運動不足だったはずですが、お兄さんは体力で勝っていたようです。 お兄さんは生活の為に普通に働いていたので、体力があったのでしょうか? 働いているのは兄だけで、経済的にかなり苦しくなりつつあるようだった。 お兄さんが働いている時間に、逃げようとしなかったのでしょうか? 後藤氏は女性3人に監禁されていた事になり、かなり不自然です。 ハンガーストライキ(断食)さえしなければ、力ずくで脱出できたかも知れません。 自由の身になれたとはいうものの、体力的に衰弱した中、所持品も着替えもなく、かつての知り合いがどこにいるかも分からない中で、〈一体、これからどうやって生きていったらいいのか〉という不安が襲ってきた。 渋谷の統一教会本部に向かうしかなかった。青梅街道から新宿方面に歩き始めてから四時間ぐらいしたところで力尽きてしまった。 通行人に頭を下げて、お金をもらった。タクシーに乗って、何とか本部教会に辿り着くことができた。 駅頭で配るチラシでは「通行人」が「統一教会の信者」に変わります。 1995年9月11日に拉致・監禁されて以来12年5ヶ月経過した今年2008年2月10日の夕刻、突然「ここから出て行け!」と着のみ着のまま、804号室の玄関から放り出されました。 私は茫然自失となり、行くあてもなく路頭をさまよいました。そして、しかたなく、渋谷にある統一教会本部に助けを求めるために歩き出しました。 しかし、途中でついに力つき、歩けなくなりました。夜も更け、わらをもつかむ思いで道行く人に声をかけ、助けを求めたところ、その人が奇跡的に統一教会の信者でした。 その人に助けられ、何とか統一教会本部にたどり着くことができました。しかし、もはや自力では立ち上がることもできず、その日の夜中、病院に緊急入院しました。 http://rachi.up.seesaa.net/file/B8E5C6A3A5D3A5E9C2E8BBB0C3C6.pdf チラシでは、青梅街道を新宿方面に四時間歩いて力尽きた後藤氏を助けたのは食口だったそうで、まさに映画のような奇跡の物語です。(笑) しかしとても大きな疑問があります。 後藤氏は何故、青梅街道沿いにある杉並警察署(マンションから新宿方面に1キロの距離)や、青梅街道沿いにある交番に保護を求めなかったのでしょうか? 杉並警察署や交番の前を通り過ぎる後藤氏は、拉致監禁が犯罪だと思っていなかったのでしょうか? 警察は被害届を提出しても、少なくとも8月まで受け取りませんでした。 そして、わが国の犯罪史上最も長期間の拉致・監禁事件であるにもかかわらず、被害届を受け取りませんでした。 当然その間に犯人は、マンションを改造、リフォームして証拠隠滅を図り、証拠は消えてしまうと言うことも考えられます。 http://blog.goo.ne.jp/cityboy1_001/e/c5fc96d23ca9b8b71467c562768d7825 後藤氏が警察に刑事告訴した日時は分かりませんが、6月まで執筆していた米本氏の本の巻末に、「その後~刑事告訴した」と小さく注釈されている事情から推測して、取材日した2月からかなり後になっての刑事告訴だと思われます。 後藤氏を取材した米本氏が、「荻窪フラワーホー“ル”」に行ってみると、内側から開かないように加工されていたと思われる「八〇四号室の窓は開放され」ていたと書かれていますから、SAKAさんの心配通り、数日で証拠は隠滅されてしまったかも知れません。 監禁中に「警察を呼べ」「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言っていた後藤氏が、杉並警察署や交番の前を通った時に、警察に保護を求めて家族を告訴していたならば、警察もすぐに立件でき、SAKAさんが証拠隠滅の心配をする必要も無かったでしょう。 本人の話によると、監禁中祈りを深めていく事によって、 何と神と対話する事が出来るようになったというのです。 その対話によって、監禁生活に耐えることが出来たというのです。 http://plaza.rakuten.co.jp/loveenemy/diary/200804110000/ 後藤氏は神様と対話する事で、拉致監禁に耐えられたそうですが、その神様は何故、後藤氏に千載一遇の機会を教えてくれなかったのでしょうか? もし証拠が無ければ、被告(母、兄、兄嫁、妹、宮村氏、松永氏)が「拉致監禁」を認めない限り、後藤氏の勝訴は望めないでしょうし、犯罪の嫌疑が認められず起訴猶予になるかも知れませんが、今後の成り行きには注目して見たいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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