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February 27, 2024
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カテゴリ:文化

叙情豊かな「余白の美」

江戸画壇を牽引した中興の祖

美術ライター  高橋 伸城

 

日蓮大聖人を慕った法華衆の芸術作品が海外に渡った経緯をたどる本連載の第3回で取り上げるのは、狩野探幽筆〈富士三保松原図屏風〉です。狩野永徳の再来と賞賛され、江戸狩野派の礎を築いた天才絵師・探幽の名品は、どのように米国人収集家のコレクションとなったのか。美術ライターの高橋伸城氏に考察してもらいました。

 

 

類いまれな巨大画派

富士の絵といえば葛飾北斎……と言いたいところですが、同じく法華宗であったこの人も負けてはいません。

かすみが集落を包んで広く立ち込める向こうに、三つに分かれた峰が顔を出す。なだらかに下る稜線を右へ辿っていくと、横に長く伸びた陸のうえに小さく松の木が並んでいます。その葉は墨で描かれているはずなのに、ところどころほのかに緑がかって見える気がするのは、目の錯覚でしょうか。

〈富士三保松原図屏風〉を手掛けたのは狩野探幽(160274)。タイトルにも示されているように、静岡科研静岡市の駿河湾近くから北東にむかって、富士と三保の松原を捉えた作品だと考えられています。江戸時代の初期に当たる17世紀の半ばに描かれ、その約200年後に米国人のチャールズ・ラング・フリーア(18541919)が購入しました。現在は彼の名を冠するフリーア美術館に所蔵されています。

世界的に見ても珍しい巨大な画派を築いた狩野家は、室町時代から幕末に至るまで、時の為政者や宮廷の関係者に仕えました。400年もの長きにわたって守り伝えたのは家業だけではありません。一族のほとんどが法華衆として、信仰を受け継いでいました。

徳川将軍の時代に入って政治の中心が近畿から江戸に変わると、狩野家の拠点を幕府の近くへ移します。この転換期に実質的な棟梁として活躍し、のちに「江戸狩野」と呼ばれるようになる体制の土台を築いていたのが、探幽でした。

〈富士三保松原図屏風〉を一見して明らかなのは、山肌や家屋の屋根など、筆を入れずに残した余白や、それを生かして薄く墨を塗るだけで済ませている箇所が画面の大半を占めていることです。探幽はいったいどのようにしてこの富士を描いたのか。また本作はどういった経緯でフリーあの手に渡ったのでしょうか。

 

 

写生から生まれた名作

探幽が江戸城の外堀にかかる鍜治橋のあたりに屋敷を与えられたのは、数えでちょうど20歳の時。だからといって、それ以降ずっと将軍の膝元に留まっていたわけではありません。近年の研究で明らかになったように、一家の中心者である探幽は江戸と京都を何度も行き来していました(山士家善也著『狩野探幽・山雪』、ミネルヴァ書房)。

徳川家康らによって各地を結ぶ街道の整備が進み、以前より旅に出やすくなったのも大きな要因の一つでしょう。探幽は生涯を通して頻繁に移動し、その道中でスケッチすることもあったようです。例えば16624月には、縦12㌢ほどの小さな巻物に、箱根や沼津など東海道沿いの6カ所から眺めた富士を写し取っています。

探幽が、〈富士三保松原図屏風〉を描くに当たって、こうした写生はどのような役割を果たしたのでしょうか。そもそも左に富士、右に三保の松原をセットで配置する構図は、「雪舟」の名で伝わる室町時代の一作を踏襲しています。一方、この伝雪舟の絵では山々が中国の地形を思わせる切り立った表情をしているのに比べ、探幽のそれは傾斜がなだらかで、より実景に近づいているようなに見えます。この絵師にとってスケッチは、学んできた先人たちの絵に敬意を払いつつも、その安直な模倣にならないよう抗う手段だったかもしれません。

また、探幽の写生には地名の書き込みや輪郭線の描き直しが認められています。繰り返し筆を入れる。この行為を通して探幽は、「何を描くべきか」を見極めると同時に、「何を描かずにおくべきか」を思考していたように思えます。現実の景色を前に筆を走らせるスケッチから、探幽の余白は生まれたといえるのではないでしょうか。

 

 

信仰との深い関わり

明治の後半に、〈富士三保松原図屏風〉が海を越え、ついにフリーアの手に渡るのに、決定的な役割を果たした日本人がいます。古美術商の松本文恭(1867~1940)です。彼もまた、法華振興と深い関わりをもっていました。

骨董好きの父の下に生まれた松本は、やがて日蓮に関心を持ち、15歳の時に故郷の信濃から上京。仏教を本格的に学ぶとともに、今後それを世界に広めていくには英語を身につけなければならないと、築地の英語学校に通い始めます。中国への2年間の留学を経て、1888年5月に米国へ向けて横浜を出港。船中で渡米の目的を尋ねられた際には「宗教哲学研究」と記しました。

約2週間をかけて米国西海岸のサンフランシスコに到着すると、今度は鉄道で東海岸のボストンへ。大森貝塚の発掘で知られるエドワード・モースを会して武術品の売買に携わるようになります。

93年にはボストンに店を開業。松本は毎年のように米国と日本を往復して作品を集めました。その4年後にフリーアが同点で購入したのが、〈富士三保松原図屏風〉だったのです。

1903年12月、松本はある雑誌を発刊します。半年ほど前に69歳で世を去った米国の画家ジェームス・マクニール・ホイッツラーを追悼するためでした。同誌で度度度言及されているのが、フリーアの名前です。彼は日本をはじめとするアジア美術のみならず、ホイッツラーの収集家としての傑出していました。

さて、松本はこの雑誌を『Lotus』と名付けました。表紙の中央に、日蓮の筆跡をかたどった「蓮」の文字があしらわれています。「蓮は人類の花である』――。松本が巻頭に記したこの言葉に、〈富士三保松原図屏風〉を米国に運ぶ一つの経路が見えてくるように思うのです。

 

 

 

【膿を渡った法華衆の芸術 米国編③】聖教新聞2022.10.31






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Last updated  February 27, 2024 05:55:49 AM
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