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カテゴリ:文化
「鉄道と美術の150年」展 東京ステーションギャラリー館長 富田 章
互いに関係しながら進む 日本の鉄道が開業したのは一八七二(明治五)年のことだ。明治維新から五年も経たないうちに、新橋から横浜まで蒸気機関車を走らせたのだから、文明開化のスピードには驚かされる。ただし、この鉄道はほとんどが輸入品だった。機関車も客車もレールも、さらには機関士までもが、外国製(人)だった。 「美術」という言葉も一八七二年に初めて使われた(北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社、一九八九年)ウィーン万国博覧会の出品布告に関する文書の中に出てくるのだが、実は「美術」も翻訳語、つまりは外国製の言葉だった。それまで書画と呼ばれていたものを言い換えたものだったが、美術と書画は完全な同義語ではなく、「美術」の背後には西欧風の考え方や制度が見え隠れしていた。鉄道と美術は、太陽暦や学生などと同じく外国からの借り物としてスタートしたのである。 これ以降、鉄道と美術は、日本近代化の波に乗り、ときには翻弄されながら歩を進めることになる。現在、東京ステーションギャラリーで開催中の「鉄道と美術の150年」展は、両者の関係を、鉄道史、美術史のみならず、社会、政治、風俗など、さまざまな視点から読み解こうとする展覧会である。 この150年のあいだ、鉄道と美術はどのような関係を築いてきたのだろうか。ここでは美術家たちが創作活動に鉄道をどう利用したが、という観点から述べてみたい。 鉄道は何より交通手段である。鉄道の普及は美術家たちの行動半径を広げた。彼らは鉄道を利用して各地の風景や風俗を描くことができたし、かつ地方での美術の普及にも貢献した。 もちろん鉄道は画題としても魅力的だった。新しく登場した易行の文明は、絵師や画家たちの創作意欲を刺激したのだ。鉄道開業当初に量産された鉄道錦絵に続いて、日本画家や洋画家たちも徐々に鉄道をモチーフとして取り上げるようになる。明治期の鉄道絵画の代表的な作例である赤松麟作の《夜汽車》(一九〇一年)は、明け方の社内の人々を描いた群像表現の傑作だ。 駅や車両は、美術品を展示、航海する場所にもなりうる。壁画は典型的な例で、一九五一(昭和二六)年に猪熊弦一郎によって描かれた上野駅の大壁画《自由》は当時と同じ場所に現存しており、目にした人も多いだろう。一九六〇年代には前衛美術家たちが、駅や絵列車内でハプニングやパフォーマンスなどの芸術行為を繰り広げた。本展では、「山の手のフェスティバル」(一九六二年)や「路上歩行展」(一九六四年)などのドキュメンタリー写真を紹介している。 近年では大きな災害などの際に、美術家が駅や線路の沿線にゲリラ的に作品を掲げて強いメッセイーを発信した例がある。芸術家集団Chim↑Pom(当時)が福島第一原発月伝書自己をモチーフに描いた《「LEVEL7faat》(二〇一一年)という作品を、渋谷駅構内の岡本太郎の壁画《明日への神話》の片鱗に掲示したケースは記憶に新しい。 この一五〇年間、鉄道と美術はともに変容を遂げながら、その関係を更新し続けている。
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Last updated
February 28, 2024 06:19:37 AM
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