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カテゴリ:教学
久 遠
池田先生の指導から 法華経本門の寿陵品に、「我は常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(法華経479㌻)とあります。別の世界ではない、この苦悩に満ちた娑婆世界に生きる人間を救うために、法を説き続けてきたというのです。 いうなれば、法華経の本門の立場は、永遠の生命に則りながら、どこまでも、現実の人間と共に在れ! 現実の社会の中で生き抜け! 現実の世界を離れるな! です。(中略) しかし、末法に正法を弘めれば、何が競い起こることは必定です。本抄(治病大小権実違目)にも「大難又色まさる」(全998・新1333)と仰せの通りです。 その中で、まず「一人」立ち上がり、恐れず、負けず、屈せず、粘り強く、一人また一人へと、正法を説き続けるのです。その使命を担うのは本門の教主・釈尊ではなく、実は、弟子である地涌の菩薩なのです。(中略) 現代において、大聖人の「地涌出現して弘通有るべき事なり」(全996・新1330)との御聖訓のままに、妙法を世界中に弘めてきたのは創価の師弟だけです。(「大白蓮華」2021年11月号〈世界を照らす太陽の仏法〉)
Q1 天文学的な数量を表す言葉が、仏教ではよく用いられます。 五百塵点劫や三千塵点劫、由旬、恒河沙、阿僧祇――仏教では、さまざまな場面で、想像を絶するような大きな数を表す単位などが出てきます。 例えば、法華経で説かれる宝塔の高さを表す五百由旬は、一説には、地球の直系の半分のも及ぶとされます。これは、仏教の生命の偉大さを表すためであるとも拝せます。 また、無数の地涌の菩薩が、それぞれ六万恒河沙(恒河はガンジス川のことで、その砂の数が一恒河沙。その6万倍)等の眷属(仲間)を率いているという説もあります。 それぞれの単位が示す数量は、時代や地域によって解釈が異なりますが、仏教で説示する場合、多くは「無数」「無量」であることを強調するためであると考えられます。 特に、仏が成道した久遠の過去や、仏の弟子との血縁の期間が長遠であることを示す際に、五百塵点劫や三千塵点劫など、大きな時間の単位として「劫」が用いられます。「劫」とは、サンスクリット(古代インドの文語)の「カルパ」を音写した「劫波」などの略で、「大時」などと訳します。 その長さを示す説はさまざまあり、4000里四方の石山を、天人が100年に1度、柔らかい布で拭いて石山が摩耗し尽くしても、なお劫は尽きないといわれます。他に、大千世界を砕いて粉々にして、100年に1度、1粒を取っていき、これを取り尽くしたときを1劫とする説もあります。 想像するだけで、気が遠くなるような悠久さうぃ感じます。
Q2仏が久遠の過去に成道したことは、何を示しているのでしょうか。 法華経如来寿量品では、釈尊は五百塵点劫という計り知れない久遠の昔に成道したことが説き明かされます。 その上で、その生命は「未だ尽きず」(法華経482㌻)、「常に此に住して法を説く」(同489㌻)――今なお娑婆世界に在って妙法を常に説き、衆生を救済し続けていると示されています。これが「久遠実成」の法理です。 釈尊が過去の〝その時に成仏した〟と説かれているので、「始まり」があるようにも思えますが、実質的には、五百塵点劫という想像し得ない期間を示すことで、「永遠」を示唆しようとしているとも言えます。 久遠の過去から無限の未来へ、仏界の生命も、衆生を救済し続ける菩薩界の精米も、ともに常住である――。いわば、久遠実成の法理とは、日蓮仏法の立場で拝せば、本来、誰もが仏であるという、私たちの生命の真実を明かしていると捉えることができます。 池田先生は語っています。 「無始無終の常住の仏は、宇宙生命そのものであり、一瞬の停滞もなく、つねに不断に、一切衆生を救おうと活動しておられる。 その仏と自分自身が、実は一体であり、自分自身が久遠の昔から人々を救うため、広宣流布のために働いてきたのだ、今だけのことではないのだ――そう自覚するのが寿量品の心です」(『法華経の智慧』普及版〈中〉) 私たちの実践に即せば、御本尊を信じて、日々、自行化他の唱題に励み、広宣流布の誓いを新たにする、その時の生命が、まさに、瞬間瞬間、久遠の仏の生命と輝くのです。
Q3過去から未来へ、生命は永遠だということですね。 仏法では、私たちの生命は今世だけではなく、過去世・現在世・未来世と、三世にわたるものと説いています。生命が「永遠に生と死を繰り返している」と捉えるのが日蓮仏法の生死観です。 三世の生命観に立脚すると、今世に原因を見いだすことのできない苦難は、過去世からの行為(縮合)の結果が現れたものであり、また、現在世の行為が因となって、未来の果がもたらされると捉えることができます。 その上で、今世において御本尊を信受し、広布を誓って自行化他の唱題に励む時、過去からの宿業を打ち消し、未来永遠に存在する絶対的幸福の仏の境涯を開くことができるという、万人成仏の道が、日蓮仏法によって確立されました。 ゆえに、広布の活動にまい進する中で、必ず宿命転換することができるのです。 御聖訓には、「自身法性の大地を、生死生死と転り行くなり」(新1010・全724)とあります。 これを拝して、池田先生は「妙法に根ざした生と死は、『法性の大地』すなわち永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのです」と語っています。 三世の生命を確信する生き方には、死を忘れ享楽に走る「刹那主義」も、苦悩に満ちた現世の生を厭う「虚無主義」「逃避主義」もありません。 だからこそ、「三世永遠の生命観」を基盤とするとき、現実の「生」を深め、豊かに充実させていくことができます。 末法に民衆救済という久遠の使命を胸に、確かな生命観をもって、希望の光で人類を照らす――ここに、私たちの創価学会の崇高な誇りがあります。
【英知の光源 希望の哲理に学ぶ】聖教新聞2022.11.6 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 1, 2024 06:21:25 AM
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