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March 11, 2024
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2回滝山祭1973713

スコラ哲学と現代文明

 

新しく時代を創造しゆく萌芽がここに

このところ、大学が近くなったのか、私は先月の十三日にもおじゃまし、ヨーロッパの旅の報告などをいたしました。

今日の十三日は、第二回滝山祭ということで、ご招待に喜んでまいったわけであります。本当におめでとうございます。(大拍手)

皆さんの元気な顔を拝見するだけで、私は充分なわけでありますが、それでは、あまりにも味もそっけもないことになりますので、また、平素考えてきたことを、お話いたします。

なお、本日は、諸君の学園の弟、妹達がたくさんみえております。兄さん姉さんとしてよく交流し、あたたかく見守ってあげていただきたい。(拍手)

四月九日の入学式の折、少しばかり大学というものの発祥についてお話いたしましたが、その中で、近代文明をもたらしたルネッサンスの精神に触れました。そして、そのルネサンスの驚異的な開花も、突然変異によって生まれたものではなく、それ以前の長い期間、人々の目立たぬ絶え間ない工場的努力と、時代の潮の必然性とのうえに生まれたものであること、また、その萌芽をたどっていけば〝暗黒時代〟と言われている中世の冬の季節に、すでに始まっていたことをお話いたしました。

今、この大学の周辺の木々は青葉に輝いておりますが、青葉の発芽は春になって急に始まったのではない。すでに、厳寒の冬のさなかに、その準備を着々と整えていたのであります。

人生もまた同じであります。今、この大学の草創期にあたって、現在、私たち一人一人が日々行っているところの、目立たない様々な努力も、あるいは多くの試行錯誤も、やがては華やかに大きく開花するであろう、未来の世界文明の発芽の準備をせっせとしているのだという確信を、私は疑いたくないのであります。

今日の話も、この発芽を確認する意味において、およそ時代には縁のないと思われているスコラ哲学にわざわざ光を当て、スコラ哲学の中にすら、時代の文明を促した強靭な発芽があったことを、明らかにしたいと思うのであります。誠に、歴史の生々流転してきたところの実相を、しかととらえることは、未来の歴史を開くカギになるからであります。

 

 

大学をつくるのは「人」であり「理念」

 

 

時代の谷間に生まれた思想

言うまでもなく、スコラ哲学とは、十二世紀から十四世紀を頂点として栄えた、中世ヨーロッパの哲学の総称であります。スコラとは当時の教会、修道院に付属する学校を言い、今日、学校を意味する「スクール(School)」という語の淵源であることは、周知の事実であります。

スコラ哲学は、一般に、「神学の婢」と言われ、キリスト教神学を権威たらしめるために存在した、いわゆる〝御用哲学〟にすぎないと考えられてきた。たしかに、スコラ学者の名でよばれる当時の哲学者、思想家のなそうとしたことは、聖書の教える信仰を、いかに正当化するかということであった。これは疑い余地はない。

その意味において、このスコラ哲学を含めて、中世ヨーロッパ哲学は、輝かしい古代ギリシャ、ローマの巨峰と、同じく栄光に満ちた近世ルネサンスの連峰との間に挟まれた暗黒の谷間にあるといった見方がされてきたのであります。近代の合理主義思想家達によって強調されたこの評価は、果たして正しいと言えるかどうか、近代、合理主義の行き詰まりから、新しい時代に入ろうとしている時代からみたとき、スコラ哲学は、どのように評価されるべきか――これが、私の論じたい主題であります。

まず、それには、スコラ哲学と言われるものが、いかなる時代状況と、社会的状況のもとで生まれ、発展したかを考えなければならない。ヨーロッパの哲学史上、中世哲学は大きく二つの段階に分けることができる。一つは、キリスト教の発生した一世紀から八、九世紀に至る時代であり、この時代の哲学を「教父哲学」と呼んでおります。

教父とは、キリスト教の教会に属して、教会の公認した教義に基づいて著作した人々のことであります。この時代は、キリスト教はローマ帝国の全体に広がり、更に、ローマ帝国の崩壊後、歴史の舞台に登場してきたゲルマン諸属の政界にも浸透していった、いわば不況時代にあたっております。この布教の中核であった教父達が、まずしなければならなかった任務は、キリスト教の教義を体系化することであり、ローマ人、あるいはゲルマン人社会の伝統的思考法の中に、いかに適合せしむるかであった。

従って、この段階で何よりも強調されていることは、一貫して〝信仰〟の確立であったということができましょう。いわゆる教父哲学の代表者として、ユスティヌス、テルトゥリアヌス、オリゲネス、テルトゥリアヌス、オリゲネス、そして、その総合的な思想家として有名なアウグスティヌスの名が挙げられます。テルトゥリアヌスの思想を要約した言葉として有名な「不合理なるが故にわれ信ず」は、信仰を絶対化したものとして、この教父哲学の一つの結晶と考えます。

更に、アウグスティヌスは、『神の国』という本を著して、〝地の国〟の代表というべきローマの崩壊後も、〝神の国〟のこの世における顕現である教会は、永久に続いていくと教え、カトリシズムの教会支配体制に理念的基盤を打ち立てたのであります。

この教父哲学の時代が終わり――ということは、ヨーロッパ全土のキリスト教化が安定して――次の九世紀から、十四世紀ルネサンスに至るまでの時代が、スコラ哲学の時代であります。その発祥の契機は、さまざまな角度から分析しなければなりませんが、カール大帝、つまり、シャルマーニュ帝によるゲルマン社会の統一と、イスラム勢力の撤退、そして今日カロリング朝ルネサンスと呼ばれる学芸興隆が、大きい要素として考えられる。先に述べたスコラ、すなわち教会や修道院に設けられた学校の起源は、このカール大帝の奨励によるものであります。

さて、一応、布教、発展の時期を過ぎて安定の段階に入ると、学芸興隆の気運とあいまって、教育の真価と形式的整備が要請されるようになった。基本的な協議についてはアウグスティヌスなどによって既に完成されているので、問題は、その教義をいかに証明し、相互に秩序付け、体系化するからであったわけである。

中世ヨーロッパが、ギリシャ、ローマから引き継いだ学問的遺産として、文法、修辞法、弁証法、算術、幾何、天文学、音楽の七学課があったが、これらは、自由学課と呼ばれ、これを神学とを、どのように関連づけるかが問題となってきたわけであります。

特に、イスラム社会との接触を通じて、アリストテレス哲学は大きい影響を及ぼすようになり、単に個別科学のみならず、人間と理性と聖書の啓示の関係、知識と信仰、哲学と神学という、根本問題に触れざるを得なくなってきたわけであります。

 

 

信仰と理性の関係性を探求

スコラ哲学を代表する人々としては、旧跡のスコトゥス・エルウゲナ、十一世紀のアンセルムス、アベルトゥス・マグヌス、十二世紀まつから十三世紀に入って、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ド     ゥンス・コストゥスと続き、末期においては、近代自然哲学の先駆者ともいわれるロジャー・ベーコンが出ている。

いま私は、時間がありませんし、この四世紀の間にわたる思想の歴史を一つ一つたどるつもりはありません。ただ、そこに含まれる基本的な問題のいくつかを抽出し、現代の視点から、そこに考察を加え、概略の流れのみを見ていきたいと思うのであります。

最初のエルウゲナは、アイルランドで生まれ、パリで活躍し、「スコラ哲学の第一の父」とも「スコラ哲学のカール大帝」とも称された人であります。スコラ哲学のカール大帝と言われたゆえんは、政治の面では、カール大帝によってヨーロッパ中世世界の基礎が樹立されたように、哲学のうえでは、このエリウゲナによってヨーロッパ中世哲学、すなわちスコラ哲学の基盤が打ち立てられたであります。

その基盤とは――「新の宗教とは真の哲学でもあり、またその逆も真である」。したがって「宗教に対するあらゆる懐疑は同時に哲学によって反芻される」――という命題であります。宗教と哲学、信仰と理性の一致を確認し、それを証明しようという、スコラ哲学の基本的課題が、彼の思考に明確にあらわれているのであります。(シュテーリヒ『世界の思想史』上、草薙正夫・提彪・長井和雄・山田潤二・工藤喜作・神川正彦・草薙茅雅子訳、白水社)

初めにも述べたように、スコラ哲学はその出発点からして、キリスト教信仰を知識、理性によって裏付けの制約を強く負っていたことを、認めざるを得ません。そして、それは「知らんがためにわれ信ず」(同前)といった、次のアンセルムスにおいても、また、トマス・アクィナスにおいても、ドゥンス・コストゥスにおいても、およそスコラ哲学者と言われる人々においては、信仰の絶対性は共通の大前提だったのであります。

ただし、時代の変化とともに、そこには微妙なニュアンスの移り変わりが確かめられる。例えば、トマス・アクィナスは〝理性によって把握される範囲では、神学と一致するはずである。しかし、信仰の内容が全て理性によって認識できるとはいえない。ゆえに、理性の及ばぬところでは、ただ信仰によって真理を把握する以外にない〟と言っている。ここに、信仰と理性の一致を信じ、これを実証しようとして出発したスコラ哲学が、その当初の目標から微妙に揺らいでいることを知るのであります。つまり、キリスト教へのかすかな会議の一歩と、一面では言えないことはありません。

更に、ドゥンス・コストゥスにいたると、〝神の意志は何ものにも拘束されず、自由である。それは理性以上のものであるから、理性によって認識し、基礎づけることはできない。神学は合理的なものである〟と言い、ついに知識、理性と信仰との分離となっていくのである。

この過程は、スコラ哲学者達にとっては、何ら信仰の動揺をもたらすものではなかったが、理性に対して、信仰や神学の教義に縛られない独自の立場を与えることにはなった。この独立の位置を与えられた理性によって、やがて近世の哲学が発展し、学問の花が咲き、その学問の成果によって教会の競技は、次々とその矛盾を暴露し揺らいでいくのであります。その意味で近世、近代の萌芽は実にスコラ哲学の中に、徐々にその姿を現しはじめていたということができるのでありましょう。

 

 

独自の文化を築いた中世ヨーロッパ

このように、スコラ哲学は、たんなる神学の婢、中世暗黒時代の象徴などではなく、近世、近代の出発点としてとらえ直しわけでありますが、さらに深く考えると、それ自体においても、一つの文化の大きく輝いた栄光の時代であったと、みなければならない。

はじめにも述べたように、ヨーロッパの中世を、古代と近代の中間にはさまれた〝暗黒〟の時代とする考え方は、近代合理主義思想家の言ったことである。だが、本当はそうではなく、中世文化は中世文化として、古代や近代のそれに劣らない。独自の文化を現出したものであり、むしろ近世、近代に通ずる萌芽を、私はそこに見るのであります。そして、もし、この考え方に力点をおくならば、現代文明は、中世キリスト教文明が凋落して果てようとする、末期的な混乱と、人間性喪失の時代であるということにもなるのではないかと思うのであります。

本来の意味から、暗黒時代というならば、ヨーロッパにおいては、ローマ帝国の没落期から九世紀あるいは十世紀に至る時代が、まさに暗黒時代であります。ゲルマン諸族の大移動が行われ、社会の法と秩序は崩壊し、交易は絶えた。そして、たえず略奪や殺戮に怯えなければならなかった時代――それは、暗黒時代としかいいようのない時代だったでありましょう。しかし、九世紀から十世紀に至って、人々は生産にいそしみ、その中から新しい文化創造の気運が高まり始めてきた。こうして迎えたのが、スコラ哲学の時代なのであります。

今日もなお、ヨーロッパの諸都市の象徴としてそびえている由緒ある教会、寺院のほとんどは、このスコラ哲学の時代に建設、あるいは着工されている。パリのノートル・ダム寺院、シャルトルの寺院、さらに、ドイツではケルンの大寺院等々のゴシック建築は、権力によるのでなく、いわゆるその時代の信仰の結集によって中世社会の持っていた技術と富をもって建てられた。中世ヨーロッパ文明の一大記念碑ということができるのであります。

しかも、これらが今日もなお、ヨーロッパの都市を象徴し、ヨーロッパ文明を象徴し続けている。例えば、パリを例にとってきた場合、ノートル・ダム寺院に負けない建造物は、ルーブル宮(現在は美術館)にせよ、凱旋門にせよ、エッフェル塔にせよ、いくらでも挙げられる。しかし、それらは王侯や特権者の栄華の残滓でしかなく、民衆全体の心に支えられた文化的結晶という観点からすると、ノートル・ダムには、はるかに及ばないと言わざるを得ません。

このように、空高くそびえ立つゴシック建築が物質的に中世ヨーロッパ文化の興隆を象徴しているのに並んで、精神世界で中世の高まりを表しているのが、まさにスコラ哲学なのであります。学問の興隆は、パリをはじめ、ボローニャ、オックスフォード、ケンブリッジと、多くの学問の中心地を生み、そこに集う学生と教師とによって、大学が形成されていった。現代の大学は、いわばスコラ哲学の時代の遺産にほかならないともいえる。

スコラ哲学が探求したもの――それは、とりもなおさず、これら八世紀の大学が教えたということになるが、もちろん、そこには、今日の学問的見地からすれば、幾多の稚拙さや誤りもあった。例えば、彼らにとっての知識とは、事実の観察によって得られたものではなく、プラトンやアリストテレスあるいはユークリッド等の古代哲学者によって書かれたものであった等である。

そして、この知識を体系化し、神学の教えを証明し、組織化するために、煩瑣な論証を行い、それゆえに、スコラ哲学はハンさ哲学とアダ名されたことは、よく知られているとおりであります。しかし、そうした欠陥は欠陥として認めた上で、なおかつ、より基本的な次元で、スコラ哲学の果たした重要な役割に、我々は気づかなければならない。

 

 

 

人間の生き方に明確な指針を示す

その一つは――それは、何よりも人間としての生き方に明確な指針を示したことである。一つの完結した世界観のもとに、人間がいかに生くべきかを、それなりに認識せしめたからである。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットはその著である『大学の使命』という本で、この点について非常に興味深い論及をしている。

「今日『一般教養』と呼んでいるものは、中世におけるそれとは異なっている。中世のそれは、決して精神の装飾品でも、品性の訓練でもなかった。そうではなくて、当時の人間が所有したところの、世界と人類に関する諸理念の体系であった。従ってそれは、彼らの生存を実際に導くところの確信のレパートリーであった」――そして「今日なお現存している残留物は、当時の高等教育を、全面的かつ本来的に構成していたものの、あわれな生き残りなのだ」(井上正訳、桂書房)と。

これは、大学教育における一般教養課程について述べた一節ですが、単に大学での強化というのみにとどまらず、人間一般として持つべき教養の根本問題に触れた、刮目すべき発言であると、私は思うのであります。今日いわれる教養は、極めて内容が漠然としており、オルテガの言うごとく「精神の装飾品」となり、あるいは、せいぜい「品性の訓練」ぐらいにしか考えられていない現状であります。だが、真の意味の教養とは、そのような、表面を繕うために苦労しなければならないようなものではない。現実の人生を生きるため、内面から、自らを導く「世界と人類(=あるいは人間の存在)に関する諸理念の体系」なのであります。

更に、オルテガの言葉を引いてみたい。

「生は混沌であり、密林であり、墳丘である。人間はその中で迷う。しかし人間の精神は、この難儀、喪失の思いに対抗して、密林の中に『通路』を、『道』を見出そうと努力する。すなわち、宇宙に関する明瞭にして確固たる理念を、事物と世界の本質に関する積極的な確信を見出そうと努力する。その諸理念の総体、ないし体系こそが、言葉の真の意味における教養〔文化〕la culturaである。だからそれは装飾品とは全く反対のものである。教養とは、生の難破を防ぐもの、無意味に悲劇に陥ることなく、過度に品格を落とすことなく、生きていくようにさせるところのものである」(同前)

こうした教養、文化の源泉となったのが、中世においては、スコラ哲学であったと言えましょう。私は、先に、スコラ哲学の意義を、日膣は近世、近代の学問的発展のための準備を整える役目をしたと申し上げた。しかし、それだけでなく、スコラ哲学自体が、中世という一つの文明の頂点を示すものであったと述べたのは、このためにほかならない。なぜなら、一つの文化の役目は、それが次の時代の文明のために、どのように貢献していくかということだけでなく――もちろん、それも大事な役目の一つではありますが、それ以上に大事なことは、その時代の人間のため、人間的向上のために、いかに役立ったかということにあると信ずるからであります。

もとより、スコラ哲学が、意図的にこうした人間性の確立とか、向上という問題を目指したわけではありません。最初に述べたように、本来は、信仰の理性によって裏打ちすることで、神学のもとに諸学問を統合すること、それによって、キリスト教信仰と教会の教義を権威あらしめようとしたものであった。だが、それが結果的に、へプライズムとヘレニズムとの融合という、ヨーロッパが古代世界から別々に受け継いだ遺産を統合し、自らの内に肉化して、真実のヨーロッパ、またヨーロッパ的人間像の形成をもたらすに至ったのであります。

 

 

人間復興の哲学と教養を樹立

 

 

次代を建設する宗教の確立が肝要

次にもう一面、文明史的にこれをみると、スコラ哲学の果たしたもう一つの役割は、〝地中海文明〟の時代から〝ヨーロッパ文明〟の時代への移行に、決定的なエポックを隠したということである。もちろん、そのための政治的、経済的、社会的な条件は、それ以前から、着々と整えられていました。しかるに、文明のもっとも確信ともいうべき精神的、知的側面で、ヨーロッパが、地中海文明への依存から哲学においてであったといえるのであります。

キリスト教は、その発祥以来、八世紀あるいは九世紀に至るまで、古代世界の地中海周辺を、その主たる舞台としていた。いわゆる原始キリスト教、初期キリスト教時代の中心地は、今のエジプトのアレクサンドリアであり、トルコのカパドシア、イタリアのローマ島であった。この時代の最大の教父と言われる、前にも述べたアウグスティヌスは、北アフリカのヌミディアで生まれ、現在のアルジェリアにあたるヒッポという地で活動したのであります。

この地中海文明に終止符を打ったのが、七世紀から八世紀にかけてのイスラム圏の拡大でありました。これによって、地中海の制海権はイスラム教徒に奪われ、キリスト教はヨーロッパ内陸部に閉じこもることになる。そしてやがて、カール大帝の出現によってゲルマン世界の統一が行われていったのであります。その後、この統一は政治的に分裂したものの、文化的には、一つのヨーロッパを思考して統合化が進んでいったのであります。

このヨーロッパ文明が、ルネサンス、宗教改革、ナショナリズムの勃興等々、幾多の変遷を重ねつつも、発展と世界的伝播を成し遂げ、いわゆる現代文明となってきたといってよい。その実質的感性が、十二世紀から十四世紀のスコラ哲学の時代に当たるのであり、スコラ哲学は精神的内容において、現代に至るヨーロッパ文明の基本的原型であったとみることができる。そして、このスコラ哲学の中心合ったおありやオックスフォード、ケンブリッジ島の諸大額が、現在もなお、世界の学問の源泉地として尊男材質つけていることは、このスコラ哲画に始まる精神の潮流が、今なお流れていることの象徴といえましょう。

今日、このスコラ哲学の時代に始まった一連の文化発展の長い歴史は、肥大化し形骸化した醜い姿の中に、悲劇的な週末を迎えようとしております。人間性の喪失、公害に象徴される文明のゆがみは、もはや誰人の目にも明らかであり、文化的創造の源のはずであった大学もまた、深刻な崩壊の危機に直面している。学問の場としても、人間育成の場としても、伝統的な大学は、その指導的地位を失おうとしているといっても過言ではない。

この終わろうとしている一つの時代から、次の新しい時代の開幕のためには、新しい大学が必要でありましょう。否、大学という〝形〟は副次的なものかもしれない。大事なのは、新しい哲学であり、現代の、いい意味でのスコラ哲学の興隆であります。真実の宗教を基盤とし、真実の信仰の核として、そこにあらゆる学問も、理性、感情、欲望、衝動等も統合し、正しく位置づけた、新しい人間復興の哲学が要請される。宇宙生命の中に人間の地位を明確にし、生の混沌の密林の中に生きるべき道を切り開く、真実の〝教養〟が打ち立てられねばならない。

この哲学を探求し教養を実践する人間と人間の集いが、真の意味の大学を形成するのであります。大学をつくるものは、建物や施設ではなく、理念なのであります。混沌の人生に対処する、力ある真実の哲学を持った人々の集うところ――それこそ、時代を動かし、文明を創造する源泉地としての、真の意味の大学であると思いますが、諸君はどうでしょうか。(大拍手)

今日、スコラ哲学の全くの風化は、その基盤とする宗教のまったくの無緑化によるものといえましょう。してみれば、現代ほど宗教を喪失してしまった時代もなく、それゆえに救済のない時代もない。――この現実のうえに私たちは生きつづけているのであります。

このように認識するとき、最大の緊急時というべきものは、時代に耐え、現代を導くに足るだけの哲学樹立であり、その基盤をなす信の宗教の確率であります。

未来を担う大学の誇りにかけても、その使命とする道は何であるか――その答は、皆さんの胸の中に既にあることを私はかたく信じて、今日の話を終わりたいと思います。(大拍手)

 

 

 

【池田先生の創価大学での講演に学ぶ】創価新報2022.11.16






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Last updated  March 11, 2024 06:00:45 AM
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