津軽の俳人・成田千空
津軽の俳人・成田千空弘前市立郷土文学館・企画研究専門官 櫛引 洋一中村草田男に師事。五所川原で俳句を愛し続けた市井の人<大粒の雨ふる青田母のくに>-成田千空(大正10年~平成19年・青森市出身)の代表句とされる。津軽の風土と人間性を打ち出し、独自の俳句文学を模索した千空は、俳人協会賞、蛇芴賞、詩歌文学館賞などを受賞したほか、師・中村草田男の精神を継承して俳誌『萬緑』の代表を務めるなど、俳壇に確かな足跡を残した。しかし、この栄誉にもかかわらず、千空は東北の小さな町・五所川原で俳句を愛し続け、ただ一点を目指して生きた市井の人であり、86歳で病没するまで、その人生を貫いた。千空と「生涯の師」草田男について記す。昭和16年、千空は当時死病とされた結核の療養中、『俳句研究』で草田男と出会う。<汝等老いたり二字に頭上げぬ山羊なるか>。「青露変」と題された三十句は「人間のなげきの声がひそんでいる、正直な句」として千空を惹き付けた。同じ頃、大野林火『現代の秀句』で「人間探究派」の存在を知り、中でも草田男の俳句は新鮮な驚きと共感をもたらした。<冬の水一枝の影も欺かず>。千空はその時の感動を次のように書いている。「読んでこちらの気持ちが新鮮になり、生きるちからを与えられるような、もやもやした憂いを突き抜けるものを感じました。するどい感性とつよい意志が詩として生みだされた句」(『俳句は喜びの文学』)。千空は、草田男を「文学の師」と定め、21年、主宰誌『萬緑』創刊と同時に入会。草田男に作品を問う中、28年に第1回萬緑賞を受賞する。<防雪林沖のごとく荒ぶ日ぞ 千空>。昭和26年、草田男は初めて青森県を訪れた。「家庭も顧みず」「先生と戦うつもり」と宣言し草田男に同行した千空は、師の句作の現場を目の当たりにする。「風景を遮断した先生の瞑目は、風景を背景にして、石のやうに重くずつしりしてゐる。二日前、弘前の長勝寺に立ち寄った際も、先生は皆から離れてひとり、天を衝く霊塔の下にうずくまつておられた。その先生自身は秋近い岩城の峯を背景にして、鮮やかに一つの人間像を見せてゐたことを思ひだす」(「原始の響き—草田男先生同行記」)。<塔灼けて衆生か民か野の人影>、この時の草田男の句である。昭和63年、千空は『萬緑』の第四代選者に就任。地方在住のまま重責を担う。選者としての最初の号に、次のように書いている。「草田男の求めたものを求めながら草田男俳句とはかなり異質の俳句になった感じもする」(中略)選をはじめるにあたって、私のいちばん好きな草田男のことばを揚げて置きたい。『俳句の味をきまった物差しではかりとるような客観的な美が別にあるわけではない。どこにも真であるところ、むしろその掴み方、生き生きとした本物の体験的な認識、うねって行く考えそのものに美がある』(『萬緑』44-1)。芭蕉の「紫門の辞」の一節「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」を彷彿とさせるものがある。千空永住の地・五所川原には、草田男と千空の師弟の碑が並んで建つ。<炎熱や勝利の如き地の明るさ 草田男>、<大粒の雨ふる青田母のくに 千空>。ともに昭和22年の作。人々が、まだ「敗戦」の中にいた時代、戦後日本の大いなる自然の息吹を、それぞれの表現で今に伝えている。(くしびき・よういち) 【文化】公明新聞2021.7.18