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ラッコの映画生活

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2007.02.06
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カテゴリ:フランス映画
MAX MON AMOUR
Nagisa Oshima

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寸評:人間ではない猿を不倫相手(?)にしたことで浮き上がってくる人間の社会や愛のあり方への疑問。シャーロット・ランプリングとマックス(猿)の純愛が美しい。

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大島渚という監督さんは、評価はしつつも、感性がちょっと違う感じがあって、でなかなか見ない自分で、この20年前の作品もかなり以前からビデオは持っていたものの、今回やっと見ました。いやぁ感動です。シャーロット・ランプリングと猿の純愛、美しいです。製作がセルジュ・シルベルマン、共同脚本家がジャン=クロード・カリエールで、これはブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』や『自由の幻想』と同じで(撮影はラウール・クタールでエドモン・リシャールではありませんが)、ブニュエルの作品と雰囲気は似ています。フランスのブルジョワの人間や社会や家具調度をしっかりとした重厚な背景にして、ちょっとエキセントリックな物語が展開するという辺りです。駐フランス英国大使館員ピーター・ジョーンズのフランス人妻マーガレット(マルグリット)がチンパンジーのマックスと不倫(?)関係になる物語ですが、これが人間の愛人であったなら話はある意味単純で、それによる人間関係のドラマを描いたような作品は沢山あります。それを猿とすることで、人間の社会や愛や不倫に対する根本的な疑問が見えてくるというわけです。

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(以下ネタバレ)
マーガレットは英国大使館員ピーター(アンソニー・ヒギンズ)の妻で、10才くらいの息子ネルソンがいて、夫は実は秘書かなんかのカミーユと不倫していたりするんですが、それでも息子を含めて円満な家族。最後まで夫婦仲自体は悪いって感じはありませんね。そのマーガレットはある日友人と動物園に行って1匹(1人)のチンパンジーと相互的に一目惚れの純愛に陥る。彼女はその猿を買い取って、アパルトマンを借りてそこに住わせ(飼い?)、毎日その部屋に通って午後の一時、愛の時間を持つ。夫は彼女の行動に不審を感じて興信所に調査を依頼する。まずここでこのピーターの、社会的に容認されている面もある男の身勝手さが表現される。自分はカミーユと不倫関係ありながら、妻の不貞は許せないんですね。

探偵は彼女が毎日通っている部屋はつきとめたものの、猿は一度も外出しないから、相手はわからない。合鍵を作らせて夫ピーターが見たものは、ベッドの裸の妻と1匹の大きなチンパンジーだった。最初はシーツ被っていて猿だとはわからないから男に「服を着なさい。冷静に話をしよう。」なんて言ってるのも笑えます。激怒して取り乱すのでなくって、実は自分の方が優位にあるのに、着衣の自分に対して全裸の間男に同じ着衣の対等の立場を恵んでやるというような、まあ大人のやり方でしょうか。この辺にもある種の皮肉も感じます。

猿と妻の不貞。ピーターには信じられない部分もある。本当に不貞なのか、それともペットを可愛がる延長線上にあるのか。相手が人間だったらそうはならないんでしょうが、相手は猿なんで、家に一緒に飼う(住む)ことを妻に提案して、妻も同意する。夫は疑惑と嫉妬があるからなかなか馴染めない部分もあるんですが、息子ネルソンはすぐ仲良くなる。このマックス、猿ではあるけれども、かなり異質な人間の象徴とも捉えられる。ブルジョワ社会にとっての異質なもの。異人種や異教徒や階級違いの(ここで言えば低身分の)人でもいい。そう言えばこの映画の約10年後のダイアナ妃の事故死についても、彼女が異教徒のエジプト人の子供を妊娠していたということで、英国情報局の暗殺説があったりするわけですね。そんな意味で、子供は社会的約束事に発想が縛られていないから、いい人(猿)なら、それだけで偏見なく仲良くなれる。でもブルジョワ社会のただ中の人々にはそうは行かないんですね。最後に車のルーフキャリアーの上のマックスと箱乗りのマーガレットがパリの街の中を走るシーンで描かれるのも、庶民の目は2人に好意的に描かれている。だから根底はブルジョワ道徳の批判なのかも知れません。

ピーターはマックスがペットなのか、それとも肉体関係をも伴った真の意味での愛人なのか、それが知りたくて妻の不在の折に街娼を部屋に連れてきてマックスと関係させてみようとする。ここで娼婦はマックス好みでなかったのか拒絶されるわけですが、もともと相手選ばず関係をするのが商売の娼婦、つまり貴族であれ労働者であれ、お金を払ってくれれば同じ男として愛の相手をするのが娼婦ですから、相手が猿だからって同じ男として偏見ないんですね。ここで笑ったのは娼婦が近付こうとしても尻込みするマックスにリンゴを差し出して「リンゴで男を誘惑するなんて初めて」っていう彼女のセリフ。肉欲的愛の原型であるアダムとイヴの物語への暗示ですね。

そう言えば動物学者ってのが登場しますが、その描かれ方も皮肉たっぷりですね。彼女と猿の部屋にマイクを仕掛けて、同意してもらえばカメラも設置して、そうすれば「ベストセラー間違いなし」なんて言います。研究のための研究なのか、名声や金のための研究なのやら。だいたいどうして猿の生態を研究して「楽しむ」ことが人間には許されるのでしょうね?。

ピーターは段々精神的に追いつめられていく。人間の愛人と同じ意味の関係であるのかどうか、つまりセックスをしているのかどうか、知りたくてもそれが解らないわけです。でも嫉妬の対象であるマックスがいることは確か。「服を着ろ」云々のことともつながるけれど、決して人間と人間として対等に向き合うことの出来ない相手でもある。一方では妻にも言われるように、殺したければ撃ち殺すこともできる。人間ではないから何の罪にもならずに不倫相手を抹殺できる。もっとも妻との精神的関係は終わってしまうでしょうが。ここで感じるのは夫婦という社会的制度にしても、結婚していないカップルの場合にしても、既にある愛情関係の相手が誰か、あるいは何か(物でも)を好きになってしまった場合って、それって何なのかって問題です。

一方では『愛のコリーダ』的世界もあるわけですが、それは日常から離れた隔離的世界でもある。自分自身経験したこともあることですが、愛の関係を純粋化しようとしても日常の中では決してできない。どっぷり、そうデュラス的な狂気のような愛のただ中だけに生きることは普通できない。どんなに二人抱き合っているだけで充足した愛の状況であっても、お腹も空けば、トイレにも行きたくなる。そしてもっと日常的なことで言えば、たとえ2人がともに好きな映画を一緒に見ていたとしても、その映画を楽しむ1人の男と、その映画を楽しむ1人の女が、一緒にいるだけなんですね。妻が女友達と仲良くしていれば、そこに夫は入り込めない。夫が何かの趣味に没頭していれば、そこには妻は存在しないわけです。日常に於ける相互独占的愛の常時接続は不可能だということです。ならば女友達や趣味を延長していったら、それが夫や妻以外の別の異性への愛でも同じことではないんでしょうか。そんな疑問が浮かび上がってきます。そしてこの映画的には、相手を猿としたからこそその辺を描くのが可能だったんですね。

ある日ピーターが家に帰るとマックスのいる檻になった部屋で妻と息子が食卓に着いて仲睦まじく夕食をとっている。檻には鍵がかけてあって夫は入れない。逆上した夫はライフルを持ち出してマックスを撃ち殺そうとする。マーガレットは身を呈してマックスを守ろうとする。銃声で通報されて警察が駆け付けてピーターは逮捕される。彼が外交特権を持った外交官であることがわかって留置所から出されようとするんですが、自分は捕まったことに値すると言って釈放を拒否する。相手は猿ではあったけれど、人間の愛人を殺そうとしたのと同じことをしてしまった(つまりは殺人未遂)という思いでしょうか。妻の愛するものを抹殺しようとしたことは事実であるという思いでしょうか。

マーガレットの母親が転んでケガをして、郊外の高級療養施設に入院した。マーガレットは病院に付き添いに行って何日も家を不在にする。するとマックスは寂しさから食事も喉を通らなくなってしまい、段々衰弱していく。その純粋な姿にピーターもほだされていく。純愛の美しさを理解したとでもいうように。高級食料品店フォションで熱帯産の果物を買ってきて食べさせようとするけれどマックスは見向きもしない。病院の彼女に電話をしてマックスと話させると、マーガレットは歌を歌い、マックスはうっとりと寂しそうにその歌声に聴きいっている。英国女王来仏での重要な仕事もそっちのけでピーターはマックスを連れて息子ネルソンと郊外の病院へ向かう。再会を喜び合うマーガレットとマックス。マックスとネルソンを連れて車で森の中にドライブに行った母親が車外にマックスを出すと、自然を喜んだマックスはいなくなってしまう。夫婦はマックスを探し回るがみつからない。マーガレットは「マックスは今まで自由も、自由の意味も知らなかった」と。翌日家族3人がパリに車で戻るのだけれど、いつの間にかマックスが木から車のルーフキャリアーに飛び乗っていた。自由選択のできる状況でマックスはマーガレットの愛を選択したという意味だろうか。パリに戻り凱旋門前のシャンゼリゼを凱旋するのは屋根の上のマックスと箱乗りになってマックスと抱き合うマーガレットの姿だ。

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マックスとマーガレットの純愛は美しく、感動的です。散文的に捉えてこれが獣姦だなんだというような物語ではありません。大島監督は「人間以外なら何でもよかった」とか言っているようですが、上に色々書いたように相手が人間でなかったから色々なことが描けたわけです。さすがにシャーロット・ランプリング、猿相手の純愛を実に美しく表現していました。ピーター役のアンソニー・ヒギンズも、ネルソン役のクリストファー・ホビックも難しい役を好演です。愛すべき一編です。

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Last updated  2007.02.08 23:02:47
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