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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.10.23
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 白滝山より芸予諸島を望む

少し画面をひいて撮影した3枚の写真をつなげてみました。

一番、右側の写真が10月12日に掲載した写真と同じ方向を撮影したものです。

画面のほぼ中央に細長く見えるのが大三島、その右手前に小さく見える島が大久野島です。

戦時中は、毒ガスの製造がおこなわれていたため、地図から消されていました。

私のもうひとつのブログ『侍大将まこべえが行く』に連載中の「瀬戸内海を旅する」に全景写真がありますので、こちらも参照してください。

大三島の左側に、台形のような形をした島が見えますが、これは生口(いくち)島です。

その生口島と大三島の間に、かすかに見える島が伯方(はかた)島。

また、生口島の左手方向には、高根(こうね)島、因島(いんのしま)、佐木(さぎ)島も見えます。

まさにここからの眺めは、芸予諸島を独り占め! です。


画面右下の山頂直下には、小さな広場と屋根が写っていますが、これは龍泉寺(りゅうせんじ)です。

この寺は、奈良時代の創建と伝える古い寺ですが、南北朝時代、沼田小早川家の一族として芸予諸島の支配にのりだした小泉氏の氏寺(うじでら)となって栄えました。

小泉氏は、この南北朝時代から積極的に海に進出し、地元の海賊衆と連携しながら、海の武士団としての性格を強めて生きます。

その勢力は、最盛期には、弓削島(ゆげしま)・因島(いんのしま)・伊予大島にも及びました。

ところが、小泉氏の本拠地は、白滝山の北側、つまり内陸側の小泉町になります。

そこで、海とは反対の方向を振りかえってみましょう。



  小泉の上野城

眼下に小泉町の町並みが一望できます。

画面の下に学校と運動場がみえますが、その一画に青く写るプールの斜め上に見える小高い丘が、小泉氏の居城と伝える上野(こうずけ)城です。

小早川家の有力一族の城としては、あまりに小さすぎますが、よく見ると、もともとは、左後方(画面中央)からのびる丘陵の先端部であったことがわかります。

それが道路を作るために切り開かれ、先端部だけが独立した山のように残ってしまったようです。

おそらく、本来の城は、切り開かれた部分を含めて造られていたのでしょう。

そう考えれば、小泉氏の城としても、おかしくない規模になります。

それでもこの程度の高さの山から、瀬戸内海は見えません。

このため、芸予諸島に勢力を広げる小泉氏にとって、島々を一望できる場所の確保は、不可欠だったはずです。

小泉氏が、この龍泉寺を氏寺にして保護したのも、一族の発展と先祖供養を祈願するといった宗教的な意味合いだけではなく、芸予諸島と本拠地とをむすぶ連絡網の中継点として、また海の見張所として、その役割を期待したからでしょう。

上野城からは、南にむかって白滝山にのぼる道もありました。

おそらく、龍泉寺に隣接するように、小泉氏の家臣が常駐する建物もあったのでしょう。


最初に掲げた写真の画面左手には、幸崎(さいざき)町の渡瀬(わたせ)も見えます。

ここは、幸崎から忠海周辺に勢力をもった沼田小早川一族の浦(うら)氏の本拠地と考えられている場所です。

小泉氏や浦氏は、ともに連携しながら、本家にかわって、瀬戸内海支配に乗り出した、海の武士団、海賊衆でもあったのです。





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最終更新日  2005.10.23 14:30:31
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