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ある事象から想起されるイメージというものを、
単純化することによって、 「思考パターン」として定着させていき、 成績というものに結びつけるということについては、 Mr.Hot Cake先生が書かれているので、 そちらをご参照いただきたい。 MR.Hot Cake先生が書かれていることと、 重複する部分はあるのだが、 イメージ力が極めて弱い(=学業不振ととらえてもいい)子に対しては、 ある段階まではイメージする作業(変換作業)の訓練が何よりも必要であるから、 それを短期的に体得してもらうために、 あえて単純化することは効果的な手法であろう。 とりわけ一問一答形式の問題に答えられるような能力の養成には、 短期間で劇的な結果をもたらすことも少なくはない。 これがいわば「功」であろう。 しかしながらこのような訓練を続けたところで、 イメージ力は最終的には、さほどついてはいかないというだけではなく、 本来その人間の内部に秘められているであろう柔軟性の発現の可能性を阻害している、 これが機械的、短絡的なイメージ力の養成の「罪」であろう、 私はそのように考えている。 たしかに、われわれ人間のイメージ力(というよりはパターン認識力)は、 コンピュータのそれよりも遥かに高速かつ高性能であるのだが、 その理由は人間のもつファジーさのなせる業であって、 厳密に範囲を限定した、イレギュラーのない状況下で、 コンピュータ(あるいは機械)と競った場合は、 往々にしてその軍配は非・人間に上がるであろう。 殊学校における「お勉強」のためのみの、 イメージ力の養成に拘泥するのであれば、 それはそれでその方の勝手であるから、 非難する気も礼賛する気も私にはない。 けれども、私は「お勉強」というものは最終的には、 「より良い未来」のためのものであると考えているので、 大言壮語するつもりは毛頭ないが、 「出来うることなら、先々にもつながる何か」を、 縁あって同じ時を過ごす子供たちに伝えていきたいと思っている。 私が思うにその「何か」は、 単純な知識の蓄積でも、 目先の小さな障害を乗り越えるための簡便な小手先な技でもない。 「空腹な者に魚を与えるか、釣り方を教えるか」、 どちらでも不十分ではなかろうか。 魚を与えることと、釣り方を教える(つまりは釣り竿を与えるということだろう)ことに、 大げさに言うほどの違いは私には感じられない。 危急を要する時には魚を与えることも正解であろうし、 そうでない時ならば釣り方を教える方が、 後々を考えると正解たりえるのだろう。 しかし、水辺でなかったとしたらどうであろう? 実は今これを書いている途中で、 私は「釣り竿を作るところからはじめよう」と思っていたのだが、 その数秒後に「しかし、水辺でなかったとしたらどうであろう?」と、 こんな考えが浮かんでしまったのだ。 屁理屈を言っているように感じられる向きもあるだろうが、 世の中は自分が思っているほどには予定通りには動いてはいない。 一筋縄ではいかない状況の連続である。 それがわかっているのに、 それをどのように切り抜けていくのかを伝えようとしないのは、 先達として後進の者たちに対して少しも優しくないのではないだろうか。 (私が勝手に感じているだけなのかも知れないが・・・) お勉強に喩えるなら、 「魚か釣り方かどちらか」ということに限定している時点で、 その考え方はいわば「ある特定の教科にしか通用しない方法」を、 教えているに過ぎないのではないかということである。 私は基本的に、「お勉強は教科が異なっても本質的にはすべきことは同じである」と 考えているので、出来れば同じような考え方、取り組み方で出来るようにと、 常々考えている。(その方がやらされる者もラクであろうから) だから、「魚か釣り方か、あるいは釣り竿を作るところからか」ではなくて、 「他の場」でも対応出来るようなものを身につけてもらいたいと思い、 日々試行錯誤を繰り返している。 少々話がずれたので元に戻そう。 学びによって得られるもの、 得たいと思っているものは、 人により種々様々である。 それゆえにこれが正しいといえる方法もなかろうし、 これは間違っているという方法もないだろう。 「学校のお勉強が出来る」と評価されるようになるためには、 イメージ力(変換能力)を上げなければならない。 試験を時間内に終わらせるためには、 効率良く問題を処理しなければならないから、 パターン認識もうまく出来なければならない。 現在の先に未来があるのは事実であるから、 綺麗ごとだけで現在を乗り越えられなければ、 多少は汚い方法も取り入れざるを得ないことはわかる。 目先のことがある程度上手くいき、 最終的には学校を卒業し、社会に出る。 そして、その社会は学校とは同じものではない、、、。 社会に出たら誰もいちいち教えてくれたり、 助けてくれたりはしない。(利害関係があれば別だが) 頼れるのは自らのみである。 その時に、必要にして十分な知識が備わっていれば、 ある程度はどうにかなるだろうが、 求められる答えが常に自らの中にあることは、 希有のことであろう(ある、と断言したいくらいだが)。 そんな時に力となるもの、 それはおそらくは膨大な知識のかけらではないだろう。 拠りどころとなるもの、 その1つがイメージ力(短絡的、機械的ではないもの)ではないかと、 私は考えている。 「出し方を考えると、入れ方が決まってくる」(車の駐車みたいだが)、 そう考えるとわかっていただけるかも知れない、、、、、、、、、、、。 乱文&抽象的で失礼。。。 (続、、、、、、、、、かないだろう) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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