私が染を始めた訳
もう30年も前のことです。スーパーの前で友人とばったり出会いました。大きな荷物を持っていて「今、ロウケツ染めを習っているのよ」と木蓮の花を描いた額絵を見せてくれました。それが染と言う未知の世界に踏み込んだ最初の強烈な印象でした。蝋で絵を描いた?どんな風にして?へ~っ。今思うと彼女も習い始めたばかりで、どの程度の物だったか(失礼!)見当付きませんが、とても不思議で新鮮な驚きでした。面白そう,決めた。友達を10人集めて彼女の家に押しかけ、教えて欲しいと頼みました。ロウケツ染です。 彼女も習いたてで、復習の積りで教える、という染知識もおぼつかない新米先生でしたが、結構楽しく三年続きました。所がおしゃべりの方が楽しく、染は一向に上達しません。とうとう壁に突き当たってしまい、解散することになりました。私はもっと続けたい! そんな或る日、「地元の女子大が同窓会会館でカルチャー教室を始め、蝋纈染めの講座もある」の情報が入ってきました。講師はルーブル美術館の常設展にも飾られて、フランス政府の賞やルーブル館で、草木染めの講習会をなさったり、ドートンヌ賞など各賞を数々頂いてる、その道では世界的に有名な先生とのことです。素敵な染の著書を多数出版なさってる、語り口の優しい、品格のある先生で、前から存じ上げていました。その宮地房江先生(同学園の元教授)の受講生になれるとは・・・。チャンス到来、私は飛びついてすぐ応募しました初回は40名、基本からみっちり、教えをいただきました。後輩は次々入って来るけど、最後まで6年間続けたのは私一人だけでした。卒業と同時に、先生の「グループに入会するように」とのことで、あらゆる展覧会や制作のお手伝い、公募展にと寝るまもなく、貪欲に仕事をしました。ロウケツだけでなく、すべての染を体験し、玄関ドアや箪笥、勿論着物も絞り染やら、型染め、友禅、紅型なども染めました。もう面白くて楽しくて、寝ても醒めても頭から染が抜けないほど没頭しました。もう気が付いたら、染を始めて20年も過ぎていました。先生もご高齢(92歳)になり、全国にいる会員42名に「これからは自分の力で活躍の場を広げるように」との言葉を頂き「散会」しました。私はその頃には工房を開いていましたので、男子大学生から84歳の元教諭まで先生の所から引き受けました。常時20名ほど、遠くからも集まり、活気がありました。会員は次々と入れ替わり、このまま続けるには、藍甕を工房に設置したいし、藍草を育てたい。これからの事を考え、自宅を改装して本格的に工房を作ろうと決心しました。陶芸店やインテリヤのお店、ホテルの売店、個展、仲間展もしました。好調な滑り出しでしたが、勉強する時間が足りません。 もう一歩踏み出すにはどうしたらいいか?ーーーー思案中ーーーー そうだ! あこがれのキャンパスワークだ・・・。「今だ、今を逃がしたら出来ない、いざ、念願の芸大へ行こう」と決心しました。しかし通信教育で染色が有るのは、京都しかないのですじゃあ京都に行けばいいのだワ・・・。単純な私です。母校へ卒業証明書を受け取りに行き、あらゆる保険やへそくりをかき集め学費を作ってそれ~行け!っと乗り込みました。私は決めたら直ぐ実行するのです。反省はするのですが後悔はしません晴れて 京都造形芸術大学、美術科(染織コース)に席を置くことなりました。 が、それからが大変でした。スクーリングは工房(教室)が夏・冬休みになる時に行けるけど、夫は二年前急性肺炎で入院、後酸素ボンベ携帯者なのです夜間はドデカイ酸素吸入器を使用するので、学校のペンションにその機械を設置して貰わなくちゃいけないのです。かと言って夫を自宅に残して、1人で3週間のスクーリングを受けるなんてそんな、無慈悲なこと、私に出来無いじゃあないですか。真夏の京都は暑いなんてもんじゃあないんですね。あのクマゼミかアブラゼミか知らないけど、部屋の中まで進入し、大きな声で鳴くんですよ。街路樹は幹が真っ黒になるほど、地面にも湘南ビーチのように隙間なくうごめいて・・・。フオルテッシモで「これでもか!これでもか!」って。あの鳴声は、車の騒音と変わりなく風情も無く、只暑さに拍車をかけるだけです。東北人の私には最大の苦痛でした。冬は1週間づつに分け2回スクーリングに通い、夫は子供たちに交代で世話を頼みました。カリュキュラムは外国語(英語&韓国語)は、冷や汗もので単位は取れ、パソコンも4単位パス。ルンルンでした。愛知、有松町(絞り染)、岩手、平泉(歴史と文化)、東京、田町、郷土史のレポートの為、あちこち飛び歩きました。3年生の夏期講習の最中、夫が又、救急車のお世話になってしまいました。今度は45日の入院で、さすがに人頼みでスクーリングはいけません。休学届けを出して翌年に望みをかけました。が、今度は私がダウン(4週間の入院)。じゃあ、もう一年留年する?いや・・・。 いさぎよく諦めよう!かくて、単位(100弱)は授業料と共にあっけなく、消えました。 1年生の夏、希望に燃えて夫とペンションの屋上から見た大文字焼(五山のながめ)の美しかった事。朝の散歩は左京区周辺(哲学の道や銀閣寺)を毎朝。休日は2人で名所めぐりをし、夫と夜の街を飲み歩いたり 不自由で何にもない狭いペンションの部屋は、まるで同棲生活している学生の様に、コンビニの弁当を食べながら、カリキュラムをこなし、もう2度と経験出来ないような、それなりに楽しいものでした。初心に帰って基礎から学んだ事は道場破りのようなもの、それが今、自信と生き甲斐になっているので、まあ良いとしましょう。たそがれてきた私の人生ですもの、これを幸せということで。チョン! おしまーい!