「温羅伝説 史料を読み解く」中山薫 岡山文庫
岡山県民としての実感でいうと、温羅伝説がクローズアップされてきたのは、平成になってからだと思う。それまでは、ただ吉備津彦命が鬼退治をした、それが桃太郎伝説の基である、というのが県民の常識だった。
やがて、鬼は実は温羅(ウラ)という名前で、実在したのだ。むしろ、在住の温羅の方が吉備地方の主人公だったのだ。という説が広まってきた。それは、古代の山城である鬼の城の発掘が進み、「うらじゃ踊り」で岡山市内をパレードする(全国的に流行した)地域発企画が大成功を納めて、はじめて本格的になった。しかしながら、古代山城の構造と歴史はかなりハッキリしたが、温羅伝説そのものの研究は、ほとんどされていなくて、異なる伝説(文献)が6つもあった事などはほとんど知られていない。だから、一応の文献批判と研究がなされているこの小さな文庫本は、後々の温羅研究の基本文献となるはずである。温羅伝説が注目されて30年、ここまで研究が遅れているのは、単に記紀などの中央史に研究が偏りすぎて、郷土史がなおざりにされている弊害だろうと思われる。
「鬼城縁起」(室町時代)、「吉備津宮勧進帳」(安土桃山時代)、「備中吉備津宮縁起」謡曲「吉備津宮磐山トモ」(江戸時代初め)、「備中国大吉備津宮縁起」(江戸時代後期)、「備中宮縁起」(幕末期)の夫々を翻訳して、分析している。
筆者は、温羅伝説成立を次のように推測する。
14世紀の新山寺の僧侶が、記紀に見える吉備津彦命の吉備地方遠征と、この新山の鬼(鬼神)とを結びつけ、史実には存在しない吉備津彦命と鬼の戦闘を描き、鬼の死後の霊魂は、その恐ろしさの共通性から、吉備津神社に祭祀されている良御前に結びつけた。また、矢喰神社、鯉喰神社の伝説が、温羅伝説創作に都合が良かったので、伝説に取り込んだ。矢喰神社の矢の衝突の件は、壬申の乱或いは源平合戦における木曽義仲と妹尾兼康の戦闘伝説の可能性もある。そして、これ以降吉備津神社の神官の手により、各時代に追加、修正、補足されていった。
私に資料批判の批判は出来ない。しかし、一定の説得性はあるように思えた。
個人的に一つだけ、私に興味深かったのは、鬼城縁起において吉備の中山を昇龍山と呼び、300もある龍の昇天した山の最初と位置づけていること。昇龍を大王の継承秘儀だと推測すれば、やはり特殊器台秘儀は、昇龍秘儀だったかもしれない。しかし、その秘儀が発明されてから1千年以上経ってからの文章なので、単に興味深いだけのエピソードなのではある。
2017年12月20日読了