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カテゴリ:出産・育児@大連
私は、すでにオーストラリアを後にして、いま、成田に向かう空の旅で、この文章を書いています。
ケアンズの空港で、妻、そして娘ソフィア(生後5ヶ月)と、しばしのお別れ。今度会えるのは、約1ヵ月後の2月26日。私はこれから、日本、中国、インド、シンガポールと、アジア大陸を逆時計回りしてきます。私は、1ヵ月後もそう変わらないでしょうけど、赤ちゃんの発達はとても早いから、一ヵ月後には見違えるようになってるんだろうな。 ソフィアは、幸せな子です。この世に生を享けて以来、大勢の人に祝福されてきました。それもそのはず。私の両親にとっても、妻の両親にとっても、待ちに待った初孫なんですから・・・。 妻の実家では、いま、血のつながった大人6人の愛情を、一身に浴びていますし、来月末には、日本の実家に連れていきますが、そこでも、いろんな人に、もみくちゃにされることでしょう。少子化の申し子のような子で、どこへ行っても、たった一人の赤ちゃんとして、大勢の大人に可愛がられるのです。 ソフィアがこの調子で、愛情をたっぷり注がれながら育つ限り、この子の前途には、明るく、輝かしい人生が待っているはずです。周りの誰もが、この子を本当に慈しんでいる。その気持ちは、必ず、この子に伝わるはずで、将来はきっと、自分を大事にする、コミュニケーションの上手な、優しい女性に育つことでしょう。 我が娘ソフィアを見ていて、思うこと。たぶん、自分が赤ちゃんだった頃も、こんなふうに、周りからもみくちゃにされながら、散々可愛がられたんだろうな・・・。もちろん、当時の記憶は全然ありませんけど、でも、心のどこかで、周りの人から注がれた愛を感じているからこそ、私は、どんな辛いことがあっても、自分を大事だと思えるし、愛されるに足る存在だと思っている。ましてや自殺したいなんて思ったことは一度もないし、この世の中、満更でもないと思っている。 そう考えると、幼い頃に愛情をたっぷり受けることが、結局はセルフエスティーム(自己愛)の高い、楽観的な人間をつくるのだと思います。もちろん、世の中誰もがそうではないわけで、自分に自信が持てず「ひきこもり」になったり、犯罪に走ったりする人間も、一定割合で存在するわけですが、それは、人生のある段階での愛情不足が原因で、セルフエスティームを向上させる機会に恵まれなかった不幸なケースなのかな、と思ったりもします。 ---------------------------------- ところで、世の中には、いろいろな「愛」のかたちがあります。たとえば、親や大人が幼い子供に対して注ぐのは「慈愛」、成人して「性」が絡んでくる愛情が「性愛」、子供が親に対して、感謝を表し責任を果たそうとする気持ちが「親孝行」、そして、マザーテレサやイエスキリスト、仏陀のレベルになると「人類愛」等々・・・。 そのなかで、「慈愛」こそが、すべての愛のはじまりなのではないでしょうか。なぜなら、誰だって、人生の出発点は赤ちゃんです。赤ちゃんは、周りの大人のサポートがないと生きられません。それも、とてつもなく手がかかるサポートですから、周りの大人が愛情を注ぎ続けない限り、まともに育ちません。そう考えた場合、慈愛こそが愛の基本形であり、人間は誰でも、自分が幼い時に受けた慈愛を糧にして、他人を愛することを学んでいくのではないでしょうか。 世界の三大宗教も、突き詰めて考えれば、「慈愛」ないし「赤ちゃんの心」が教義の基本になっているように思います。キリスト教の場合、その基本コンセプトは「愛」です。教会の牧師さんも、「我が子を愛するように、隣人全てを愛せよ」みたいな話を好んでします。もっとも、我々凡人には喜怒哀楽の起伏があって、いつでもどこでも、隣人愛を注げるわけではないから、神(God)とイエス・キリストという、「どんな時も、人類全て、生きとし生けるもの全てを愛する」という絶対的存在を持ち出してくるわけですが・・・でも在家の、特に子供を持つ信者さんの多くは、たぶん、「我が子に注ぐ愛情」をヒントにして、キリスト教の人生を実践してるんじゃないかな。 キリスト教の心が、「大人が赤ちゃんに注ぐ愛情」だとすれば、仏教の心は、「赤ちゃんの心になる」ことかもしれません。我が娘も含めて、赤ちゃんの心は無垢で、この世に執着も何もありません。でも、人間歳をとるにつれ、物欲、権力欲、名誉欲みたいな煩悩が出てきて、人の心を安らかにさせません。そんな中で、煩悩・執着から自由になった心理状態を意識的につくり出すことが、仏教者の究極目標であるところの「解脱」だと思いますが、それは、赤ちゃんの心そのものだという気がします。また、仏教のもう一つの生命は、「生きとし生けるもの全てが、支えあって生きている」という世界観だと思いますが、その心は、自らの生命を周りに全面依存した赤ちゃんの心に学ぼう、という気がします。 イスラム教については、不勉強ゆえよく知りませんが、私がシドニーで知り合ったイスラム教徒の友人は、みな子沢山で、家族の結束が非常に強いという印象があります。そう考えると、たぶんキリスト教と同様、「慈愛」が基本形になっているのかな? やや話が拡散してしまいましたが・・・私は思うのです。人間誰もが、愛される資質を持っている。皆さんだって、周りの皆に愛されてきたからこそ、こうやってちゃんと大人になれたんですよね?自分の人生において、誰かに愛され続けてきたということ、そして、自分は愛されるに足る人間だということは、人間、常に忘れちゃならないことだと思うのです。そして、人をして、その心を忘れさせないために、人類は宗教という、偉大なる方法論を編み出してきたのだとも思います。 ---------------------------------- 人の親になるということ、それは、大変なことではありますが、我が子という、限りなくいとおしい存在を通じて、新鮮な、みずみずしい感情を取り戻すことができる。そして、我が子に注ぐ愛情を通じて、自分が、この子にとってかけがえのない父親であることにも気づかされる。ソフィアを授かったおかげで、私は以前より、ずっと幸せになることができました。 だから、子育てって、素晴らしい体験だと思うのです。私と同年代で、子供を持つことを逡巡している友人がたくさんいますが、できればチャンスがあるうちに、子供を授かって、親になってしまうのがいいと思いますよ。可愛い我が子は、これまで味わったことのない幸福感を、きっと与えてくれるはずです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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