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テーマ:スマトラ島地震(322)
カテゴリ:プーケット生活
やはり、ナナイの入り口付近まで海水は到達していたようだが、なんとか無事に到着する事ができた。
この後何が起こるかわからない。 自分を含め皆不安に駆られている様子だったので、お腹がすいていては何も出来ないと急に思い立ち昼食にスパゲティーを作る事にしたのだが、ニンニクが生憎きれていた。 友人の息子さんに市場に行ってニンニクを買ってきて貰うことにした。 数分で戻ってきた息子さんの手ににんにくは握られていたが、彼曰く市場に野菜は普通に並んでいたが、呼べど探せど人っ子一人いない状態だったという。 仕方がないので、ニンニクのお店に40Bを置いて貰って来たそうだ。 なかなか妥当な値段だと皆納得する。 市場の人々は取る物もとりあえず、どこかに逃げていったのであろう。 野菜類をそのままにしてあった事から、そうとうな慌てようだった事が伺える。 ニンニクを手に入れ、その後10人前以上のスパゲッティーを作り続ける。 何かをしていないと、落ち着かない。 皆夢中で大量のスパゲッティーを食べた。 この時点で友人のニランさん(ブログ仲間でもある。日本人)だけ連絡が取れない。 ニランさんは時間的に丁度ビーチ近くの仕事場に向っていたか、一人ビーチ目の前のオフィスにいた可能性がある。 何度電話をしても、一向に携帯は通じない。 普段ニランさんは何も用事がなくても我が家に来る人なのに、こんな非常事態にうちにこないなんてあり得ない。 ニランさんが無事やってくる事を願ってスパゲッティーを残しておく。 その後、午後2時ごろになってようやくテレビで報道され始めた。 ただ、映像はこの時点ではなかったように思う。 テロップで繰り返し、スマトラ島付近で大きな地震があったことと地図が映し出されていた。 タイの報道はあまりあてにならないので、BBCやNHKやCNNを交替に見ていた。 こういう時かなり迅速かつ、映像が入ってくるのが早いのがBBCのような気がする。 午後1時ごろになって、どろどろになったニランさんの夫が尋ねてきた。 どうやら、彼は友達と共に来たようで、やはりニランさんと連絡が取れず絶対に我が家にいると思って来たらしい。 いない事を知ると、涙を浮かべながら 「探してくる」 と言って飛び出して行ってしまった。 その後、お客様や友人は各部屋に休みに行ってしまったが何しろあの日は日曜日。 避難しなかった家の子供達が、暇を持て余し続々と遊びに来る。 仕方がないので、プールで遊ばせる事に。 少し静かになった頃、泣きべそをかきながら旦那に連れられてニランさんが来た。 思わず私も涙ぐんで、無事だった事にほっと胸を撫で下ろす。 彼女は丁度仕事に向う途中でバイクの運転中だったらしい。 パニックになりながら、逃げ惑うタイ人に紛れてバイクでひたすらナナイまでたどり着いた。 だが、ナナイは大渋滞。 何がおこったか全くわからないニランさんは、他のタイ人達と同じように崖をひたすら登り、山の中で膝を抱えて待機していたというのだ。 あとほんの300メートルの距離なのに、うちまでたどり着けなかったのだと言う。 さて、家を飛び出ていったニランさんの旦那は偶然その崖の下でニランさんのバイクを発見する。 そして、崖を登るとそこにニランさんがいたというのだ。 あのパニックの最中で、二人が出会える確立なんてゼロに等しいと私は思っていたがきっとニランさんを思う旦那の気持ちが強かったのだろう。 その少ない確立で、二人は出会ってしまうのである。 そんなほとんど奇跡に近い二人の再会を聞いて、ああ、二人はやっぱり結婚する運命だったんだと私は思った。 その後、残してあったスパゲッティーを食べ、彼女も落ち着きを取り戻したようだ。 しかし、心配なのはオヤジのいとこである従業員のカマラの家である。 カマラの家には、彼女達の両親と自分の子供がいるはず。 しかし、全く連絡はとれない。 おまけに一番危険と思われるのが、彼女達の弟。 弟はパトンビーチで観光客相手にロングテールボートを運転している船頭である。 確実にあの時間にはビーチにいたと思われるが、時折繋がる携帯電話での彼の嫁からの情報では、最後に彼の姿を見たのは津波が来る直前に船を出すところだというのだ。 どう考えても、津波に巻き込まれた可能性が高いので姉二人はランドリールームで泣き崩れていた。 ところが、その1時間後に連絡が入り、確かにその時海に出たがなんとかして沖に出たので転覆する事はなくしばらく海の上で様子を見つつ待ってから陸に上がってきたのだと言う。 もう少し海に出るのが遅かったら、彼の船も彼もどうなっていたかわからないが、本当に運のいいことに彼も船も無事だったのだ。 本当に人の運命というものはわからない。 秒刻みで変わることもあるわけだ。 その後彼女達を家に帰らす事にした。 両親や子供の様子を見に一刻も早く帰りたかったろうが、ビーチがどうなっているか想像もつかない状態だった為帰すこともできなかった。 しかし、バイクなら何とか通れるといって彼女達は帰っていった。 家に帰った彼女達からしばらくして連絡が来たが、両親と子供は走って山の方に逃げた為無事だったらしい。 今はうちのオヤジの実家に身を寄せていると言っていた。(オヤジの家は少し小高い山の中腹にある) しかし、やはり彼女達の家は入る事もできない状態だったらしい。 家自体はビーチから200メートル程はなれているのだが、カマラはもともと海抜が低いのと村の中央に小さな川があって津波はそこを逆流したらしい。 カマラの津波勢いは恐らくパトンよりも強かったようで、翌日彼女達の家の裏でビーチの目の前にある寺のお坊様のご遺体が流れ着いているのが発見されている。 彼女達は着の身着のまま、その他多くの人達が着替えも無いままオヤジの実家の辺りに非難してきているという。 オヤジは早速私の人が一人入れるぐらい大きなバックに、自分のあまり着なくなった服を詰め始めた。 私も、家にある小さくて着れなくなった子供の服や、私の服も加えバックに入れる。 この先何があるかわからないし、こんな時はオヤジにいてもらいたいと思ったが止めても絶対に行くとおもったので、オヤジに協力することにする。 結局オヤジはバイクで巨大なバックを担いで自分の村に行ってしまった。 相変わらず携帯電話は繋がらないので、無事帰ってくるのを待つしかない。 その後数時間してオヤジが空のバックを持って帰ってきたときは、ほっと胸を撫で下ろしたものだ。 今オヤジにいなくなられては、私もどうしていいのかわからない。 普段必要な事も喋らない位の無口なオヤジだが、フットワークは抜群なのでこういう時にはかなり頼りになるのである。 その日夕飯を何を食べたのか既に忘れてしまった。 この頃にはもうくたくたで、記憶も曖昧である。 ただ、日本の友人からの連絡で、ダイビングトリップに行くはずだった彼のお客さんが空港で立ち往生しているという。 タクシーも1台もいない状態で、このままでは空港に寝るしかないのだが何とかならないかと聞かれた。 こんな時なので、家族で2部屋使っていたお客様に事情を話し1部屋心良く譲ってもらうことに成功。 さっそくオヤジがそのお客さまを空港に迎えに行かせる。 その後お客様と直接電話で話す事ができたのだが、空港には何人かの日本人がやはり立ち往生しているらしい。 私はもし困っている女性がいたら、4人までは乗れますから是非シェアーして乗ってきてくださいとお願いした。 そこで立ち往生している人達が、朝空港を出た時は津波はまだ来ていなかった為、飛行機は普通に離陸してプーケットに到着してしまっているわけだ。 お客様も狐につままれたような話だと思ったろう。 空港に到着しても、ホテルの迎えや、タクシーも1台もない状態である。 結局そのお客様は近くにいた3人の日本人女性に声をかけ、ここまで同乗して来た。 女性3人に話を聞くと、メリディアンに泊る予定だったらしいのだが空港から電話をしても全く繋がらないのだそうだ。 とりあえずオヤジに彼女達を乗せてメリディアンに向かわせたのだが、あえなくして全員戻ってきた。 一応彼女達には、何かあったらうちのベッドルームで泊ってもらうことはできるので遠慮せず戻ってきてください、こんな時ですからといっておいた。 メリディアンは一応空いてはいたが、電気がストップされている状態で全室停電状態。 泊り客の人達もろうそく片手に歩いている状態。 レセプションの人に 「どうしてもというなら、寝る事はできますがお水も電気もエアコンもなにもないです」 と言われ、ちょっと怖くなってしまったらしい。 困った時はお互い様なので、うちのもう一つのベッドルームで寝てもらうことにした。 こうして、ものすごく長い1日が終わった。 テレビでは、山の上で夜を明かす人達の姿などをずっと写していた。 そうやって避難している人もいるのに、本当にここが大丈夫なのか非常に心配で不安で、体は疲れているのに寝られない。 プーケットはどうなってしまうのか? そして私の住む町パトンはどうなってしまうのか。 ぐるぐると頭の中を今日一日あったこと、そして先のこと、我が家の商売のことが駆け巡る。 その横で、何が起きたのか良くわかっていない息子がすうすうと寝息を立てて寝ていた。 私達はどうなってしまうのだろう。 あの夜、パトンの山の上で、ピピ島の山の上で、カオラックで、皆が不安な気持ちで夜を明かしたに違いない。 そして、次の日からこの津波被害の大きさが次第に明らかになっていくわけである。 ここに住んでいて良く感じる事は、死を非常に身近に感じる事。 車を運転していても、バイク事故でたったさっき亡くなった人が道路にたおれている人をよく見かけるし、新聞には亡くなった人の遺体の写真が毎日掲載されている。 人の運命は常に死と隣りあわせだ。 1秒の違いで亡くなる人とそうでない人がいる。 だから、やはり私達は自分の大切な人生を、一分一秒大切に刻んでいかねばならないのだろう。 この災害により、いろいろな津波、地震に関する様々なシステムが造られたが、あの津波を教訓にというにはあまりにもその被害は膨大だった。 あれから一年、あの津波や地震で亡くなった方々の心よりの冥福を祈ると共に、大切な人を亡くされた人々の心が少しずつ悲しみから開放されることを願ってやまない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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