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テーマ:隠居の愉しみ(1115)
カテゴリ:徳川家康
数日前ネットオークションで写本を落札した。
落札価格300円+送料360円 久しぶりに安い買い物だった。 届いた商品はこんなもの 徳川家康の生まれてから死ぬまでの年譜。 著者は 家康の九男 尾張徳川家初代 徳川義直である。 空欄に「大正2年 神戸の寓居にて浅井★之」と写本者名がある。 漢字ばかりで完全には読めない。 眺めていると意味は 7~8割くらいわかる (ような気がする) 上の写真は家康数え19歳、永禄3年(1560)5月 織田・今川が戦った桶狭間の合戦の折 今川義元本隊に先行して大高の丸根砦を攻めたこと。 義元討ち死に後 岡崎大樹寺に引き上げたこと。 その後 岡崎城に入ったことが書かれている。 面白いのは 前年の永禄2年に大高城へ兵糧を運んだとある。 高名な「神君 大高城兵糧入れ」である。 諸説あって 通説では 永禄3年桶狭間合戦の前日のこととなっている。 しかし危険な敵前兵糧入れのすぐ翌日 その敵を攻撃するというより この年譜にある前年のこととした方が自然な気がする。 適当に読み進めていくと慶長9年(1604)の閏8月14日 「朝鮮人来聘(僧松雲 孫文い或 金孝舜 来請文禄之因 公許之) という文があった。 この僧松雲というのは 当時の朝鮮にあって傑出した人物で 文禄の役では 敗走を続ける朝鮮正規軍とは違い 朝鮮の僧侶をまとめて日本軍と果敢に戦っている。 一旦、休戦後の慶長の役では 加藤清正に対して朝鮮の立場を説明し講和の働きかけをしている。 秀吉の没後、渡海した全将兵の引き上げ、関ケ原合戦と続き徳川の天下となった。 慶長8年(1603)征夷大将軍となった家康の働きかけで 朝鮮国王が日本の情勢探査を兼ね 松雲大師を日本に派遣した。 伏見滞在中の家康が使節一行と会見したのが この記事。 これが文禄・慶長の戦後処理となり 松雲大師は 日本軍に連れ去られた朝鮮人捕虜のうち 1340人を故国に連れ帰っている。 これより後 慶長12年(1607)には 朝鮮通信使一行が来日 以後 徳川時代には将軍の代替わりに全12回の通信使来訪があった。 慶長12年5月の記事(第1回朝鮮通信使節) 朝鮮からの征夷大将軍秀忠への贈り物 大御所家康への贈り物の数々 将軍からの返礼品、大御所からの返礼品が記されている。 参考 家康と松雲大師 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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