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カテゴリ:Movie
アン・リー監督の最新作『ラスト、コーション(色・戒)』を見に行った。過激なラブシーンばかりが話題になっていて、正直足が重かったのだが、見てみての感想はいい意味で予想を裏切る、素晴らしいものだった。どうしてラブシーンばかり話題になるのかわからない。これはもっと深いテーマを隠した作品だ。
制作サイドはおそらくラブシーンで大衆を釣って(笑)、映画を見てもらい、そこで作品にこめられたもっと深く大きなテーマに気づいてもらおうとしたのだろう。リー作品のいつもの「手」だが、「ラスト、コーション」に関しては、ちょっとハズれではないか。過激なラブシーンの前評判でむしろ、日本の観客は引いているような気がする。中国や韓国では逆に、あまりにそれが刺激的すぎて、この作品の本当のテーマを誰も口にしなくなっているようだ。いや、むしろ中国や韓国が、この映画を「過激なラブシーンが売りの映画」にしておきたい心情が、映画を見てわかった気がする。この作品は「自分たちは軍国主義の悪の帝国・日本の侵略に、一方的に犠牲になった」というふうに「だけ」考えたい人々が見たくない歴史の事実を、さりげなく突きつけているからだ。 <以下、ネタバレもありますので、どうしてもストーリーを知りたくない方は読まないでください。でもストーリー展開の意外さで見せる映画ではないので、見る前に読んでおいたほうがいいかもしれません> 舞台は1940年前後の日本軍占領下の上海と香港。総制作費は3000万ドル。これはリー監督の前作『ブロークバック・マウンテン』の制作費の2倍だ。リー監督自身もブロークバックが当たったから、これだけの資金を集められたのだと言っている。40年代の上海と香港の街並みを再現したセットは見ごたえがあった。上海は今とはまったく違う魔都の雰囲気にあふれている。むせかえるように暑く、南国特有の力強さのある植物に覆われ、スコールのふりそそぐ暑き香港も魅力たっぷりだった。 それにしても、決して歴史大作ではない、無名のスパイと日本軍の手下という、地味な設定のパーソナルなストーリーに、こんな大掛かりなオープンセットを組ませてしまうリー監督は凄い。そう、この物語は、決してスリルいっぱいのスパイ工作映画でも、傑出した英雄が歴史を動かしていくスケール感あふれる大作でもない。歪んだ歴史のうねりの中で、愛し合い、助け合うべき人間が、疑い合い、殺し合う悲劇を描いた珠玉のような作品だ。 1930年代末の香港、大学生のチアチー(タン・ウェイ)は、先鋭的な抗日思想に燃えるクァン青年(ワン・リーホン)に誘われ、愛国芝居の舞台に立つ。そこで観衆の熱狂を目の当たりにした演劇学生の集団は、「もっと大きなことを」と考えるようになる。そこで目をつけたのが日本の手先になって抗日分子をつぶしている特殊機関のリーダー、イー(トニー・レオン)だった。クァンは同郷の知人のコネと友人の親の金を使い、チアチーをイーに接近させ、イーを暗殺しようと計画を立てる。だが、もう一歩のところでイーは上海へ栄転となり、彼らの幼い正義感に突き動かされた野望は、そこで潰えたかのように見える。ところが、彼らの企みに気づいて恐喝してきたクァンの同郷人をクァンとその仲間がはずみで殺してしまったことで、彼らはただの抗日かぶれの演劇学生でいられなくなってしまう。 3年後、チアチーとクァンは上海で再会する。そのときクァンはすでに中国国民党の抗日活動組織の一員となっている。クァンは上司であるウーにチアチーを引き合わせる。ウーは香港でのクァンの計画をさらに緻密に練り上げ、チアチーはスパイとしてイーのもとへ送り込まれることになる。ウーはチアチーに「イーの暗殺が首尾よく終われば、父親のいる英国へ行かせてあげる」と言うが、実はそんなつもりはハナからない。その証拠にチアチーから預かった英国に住む父宛の手紙は送らずに燃やしてしまっている。 チアチーは夫人を通じてイーに接近し、肉体関係をもつ。イーは疑いながらもチアチーとの情事に溺れていく。チアチーもまた、イーの激しい行為をとおして、彼のかかえる孤独と恐怖、そしてその恐怖の裏にある生への渇望を感じ取り、惹かれていく。 チアチーに惹かれていたクァンは、途中からチアチーの身の安全を何とか図ろうとする。だが、もう遅かった。ウーはチアチーにさらに本格的なスパイ工作を要求し、チアチーはウーとクァンに、自分とイーのなまなましい関係を話して聞かせる。最初はクァンにほのかな想いを寄せ、半ばクァンのためにイーを誘惑したチアチーだったが、すでに2人の関係は抜きさしならないものになっていたのだ。 激しさを増す抗日活動の工作員を残酷に弾圧し続けるイーだが、時代は変わろうとしていた。アメリカが参戦したのだ。イーは日本の敗北とそれにともなう自分の末路を予感しはじめる。そんなイーをチアチーは中国人の愛唱歌『天涯歌女』を歌って癒そうとする。「穴にとおされた糸は針とひとつ」という、まるでイーとチアチーの願いをそのまま詞にしたような歌声にイーは涙する。 ある日、チアチーはイーの紹介で宝石店を訪ねる。そこではイーがチアチーのために6カラットのカラーダイヤモンド(!)を用意していた。言っておくが、イーは、「ラストエンペラー」ではない。単に特殊機関のリーダーに過ぎない。どう考えても身分不相応なプレゼントだ。このお金はどこから捻出したのだろう? おそらくは、物資の横流しだ。実際、ウーはイーがそうやって、日本軍をも裏切っていることに薄々気づいている。 この破滅的に高価なプレゼントを受け取る日、抗日活動家の同志が隠れて監視している宝石店で、「ダイヤをはめた君が見たい」とイーにささやかれたチアチーは、これまでのような「演技」がついに出来なくなる。そして、思わず、「逃げて」とイーに「告白」してしまう。その言葉を聞いてすべてを悟ったイーは、脱兎のごとく宝石店から逃げ出す。 イーが逃げたあと、チアチーは人力車で家へ帰ろうとする。人力車には紙の風車が3つついている。まるで、ついに重なることのなかったイー、チアチー、クァンの3人の中国人の人生のように風車は回り続ける。 イーの命令であっけなく「元」学生の抗日活動家は逮捕される。ウーだけは先手を打って逃げている。正義感に燃えていた若い抗日活動家たちは、深い湖の淵に一列に並べられ、組織の誰からも助けの手を差しのべられることなく処刑される。 すべてが終わったあと、イーは自宅でチアチーの使っていたベッドでひとり涙を浮かべている。夫人が入ってきて、機関の人間がチアチーの私物とイーの書斎からも何かを押収していったことを告げる。すでにイーがチアチーに贈った高価なダイヤモンドの指輪は機関の人間に見られている。日本の敗戦も間もなくだ。イーにも破滅の時が迫っているのだ。 この物語の悲劇はどこから始まったのだろう? おそらくはクァン青年のいだいた正義感だ。単に学生演劇の延長で、暗殺ごっこを企てただけだったら、チアチーもイーに深入りすることはなかった。だが、その企みが同郷人に漏れたとき、クァンは彼を「売国奴」と罵倒して殺してしまった。売国奴だから殺してもいいのだと思った。あるいは、そう思いこもうとしたのだ。 それを知った国民党という大きな組織がクァンを、そしてクァンに好意を寄せていたチアチーを利用する。おそらく中国政府にとって、この映画がもっともカンにさわるのは、売国奴(つまりはイー)を美化しているとかしていないとかではなく、抗日組織がクァンのような若者の理想や正義感を利用してポイ捨てにしたということをハッキリと見せてしまっている点だ。クァンとその仲間は結局、日本の手先一匹すら抹殺できずにあっけなく処刑されてしまった。 といって、もちろんリー監督は日本の占領を美化しているわけではない。中国政府が喜びそうな、「日本軍の残虐行為」を見せつけるシーンこそないが、上海で上映されているアメリカ映画が途中で打ち切られ(おそらく、キスシーンなどがあって、それをカットしたのだろうと思う)、日本軍が「欧米の支配からアジアを解放しよう」などとプロパガンダを流し、中国人の観衆が怒りながら席を立つシーンなどは、占領下の人々の心情を表しているし、人々の暮らしの厳しさについては間接的に語られたり、路上でむなしく死んでいる貧しい人の姿を借りて表現されたりしている。 なんといってもこの物語の最大の悲劇は、同じ中国人同士が「日本」という敵のもとで、互いに不信感を募らせ、殺し合ったことにあるだろうと思う。イーがチアチーに対して抱く猜疑心は、日本軍の占領という時代がもたらしたものだ。クァンが殺すべき本当の敵はイーではなかったはずだ。イーは同じ青春を過ごした学生時代の知人が拷問され、またその知人から自分が激しく憎悪されるのを目の当たりにしなければならなかった。 「ラスト、コーション」の語る本当の「戒め」は、「色情」ではなく、戦争と占領という特殊で異常な時代がもたらした同国人の同国人に対する憎悪に向けられているのではないかと思う。人と人との関係を歪め、対立させ、アイデンティティを見失い、愛を信じようとする自然な欲求すら人から奪ってしまう戦争の悲劇。この映画が民族的タブーへの挑戦だというならば、それは、売国奴に惹かれてしまった女性の心情がタブーなのではなく、中国人同士が日本という悪に対して一致団結して戦ったワケではなく、実は日本に利用されながら日本を利用した中国人がいたこと、自国民を利用し、利用されてしまった中国人もいたという事実がタブーなのかもしれない。 イーとチアチーがひとつになれたのは、『天涯歌女』の歌詞の中でだけだった。そこに2人の男女の最大の悲劇があると同時に、当時の中国人の民族的な悲劇もある。 そう思ってみたときに、ふと思い出した映画がある。ヴィスコンティの『夏の嵐』だ。リー監督が生まれた年に封切となったこの作品は、日本ではまったくといっていいほどウケなかった(笑)が、実は戦争が個人の精神をどう破壊するかをさりげなく描いた深い作品だ。設定も『ラスト、コーション』とかなり似ている。 時代背景:20世紀の日本統治下の上海(ラスト)、19世紀のオーストリア占領下のベネチア(夏) 主役:日本の手先の金持ち男と抗日運動活動家の女(ラスト)、オーストリア占領軍将校の男と抗オーストリア活動家を従兄弟にもつベネチアの裕福な貴族夫人(夏) 占領下のエピソード:映画館で日本軍のプロパガンダ放送が始まると観衆が怒って次々に席を立つ(ラスト)、 オペラの劇場で、平土間のよい席で見ているオーストリア将校に対して、ベネチア市民が花やビラを投げつけて「外国人は出て行け!」と叫ぶ(夏) 男女の運命:女が男の命令で処刑される(ラスト)、男が女の密告で銃殺刑にされる(夏) リー監督の『ラスト、コーション』も素晴らしい映像美だったが、『夏の嵐』ももちろん、スゴイ。なんといってもヴィスコンティの世界だ。ベネチアの華麗なオペラ劇場から始まり、水の都ベネチアの古びた街のたたずまいや陰鬱な運河。抜群に素材のよさそうな貴婦人のドレス、顔のかけた上品なレースのベール、オーストリア将校のきらびやかな白い軍服、広い豪華な貴族の館、重たげなカーテンや贅を尽くした家具・調度類、北イタリアの美しい緑の田園風景などなど、これでもかというぐらいの映像美で見る者を圧倒する。 リー監督は『ブロークバック・マウンテン』とこの『ラスト、コーション』が双子の姉妹と言っていたが、なんだか設定やエピソードを思い浮かべてみると、『夏の嵐』こそ『ラスト、コーション』の時を隔てた姉妹のような気がしてきた。 だが、いかんせん古すぎて、Mizumizuも『夏の嵐』はよく憶えていない。そういえば、家にDVDがあったハズだ… と思いつき、どれどれとひっぱり出して見てみた。 すると、『ラスト、コーション』とは関係のないところで、ビックリするような発見があった。 <明日に続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.02.28 01:20:37
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