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昨日は、寂聴さんのエピソードに共感して下さるアクセス倍の関心を 多く戴きました。人はふれあいによって大嫌いであった人とも180度 転じて、お人柄の誤解がとけることと、子供の痛みに母さんの 暖かい「手をあてがう」手当てで痛みが癒されることよくききます。 まして仏に仕える身の手当ては、徳効があり、感謝の気持ちで 共に、「般若心経」を唱えることが大切なことと感じました。 本日は弘法大師さんが清滝川上流で、神護寺を創建され、 嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)と深い都造りの相談者でも あり、此処嵯峨野を歩かれ、無縁仏の風葬の亡骸を鄭重に埋葬に 心されたと思います。
【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその 一言に尽きると思います。 法名の名付け親は、同じく作家で天台宗の僧で 【今東光師匠】 でした。
【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北 へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。 山号 華西山(かさいざん)
参道
受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを 隠せません。 十三塔の前のお釈迦さん 「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れと して石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの 「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿 の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の 慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。
西院の河原 お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」 毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】として ローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し 、毎年増えつつあるようです。 「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前 「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました 無縁の遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の 常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」 (かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗と されたそうです。 本尊・阿弥陀如来 【阿弥陀如来坐像】 (湛慶作) が祀られて居ます。受付に至る 石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった 「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 極楽図と地獄図が画かれていました。 【西院の河原】 (さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原 の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは 父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると 鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界を この世で回向の大切さを説かれているやに思われました。 石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が 微笑ましい形で一杯見渡せます。 麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを
【蓮台野】 と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の 場所でした。金閣寺の側あたりです。 本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られて いました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られてい ました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。
孟宗竹 竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります 風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病 で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました 死後その悲しみを雷神の身体を白色にして宗達は黒の風神図として供養したとも いわれています 更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、 六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変 わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さって いる様です。 「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。 「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。
紅葉時の境内
(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
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