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カテゴリ:身体・感覚
最近、縁があって日本の少し前の本を読む機会がでてきました。
そうすると、たまに、まるで別の国のような気がしてきます。 『「茶の本」岡倉覚三著、岩波文庫』 お茶の中国からの成り立ち、背景が書かれています。 この本の前半を読むと、ミニ茶博士になれます。 お茶を日本では「茶道」にまで高めるのですが、 『茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった。今や茶は生の術に関する宗教である。・・・・・すなわち、主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行う口実となった。茶室は寂寞(せきばく)たる人世の荒野における沃地(よくち)であった。疲れた旅人はここを会して芸術観賞という共同の泉から渇(かわき)をいやすことができた。』 こんな場所、現代にはないように思います。 これには、中国からきた道教、禅道の影響があります。 『道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教ととは異なって、この憂き世(うきよ)のなかにも美を見出そうと努めている。・・・・・・全体は常に部分を支配することができるのである』 そして、茶人たちはお茶の思想で、当時の建築、茶碗、絵画などすべての文化に広い影響を与えました。 『ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い規範によって彼らの日常生活を律しようと努めた』 日常生活の中に美を実践しようとした茶人たちだからこそ、さまざまさ分野に影響を与えたのだと思います。 道教、禅道というと、ちょっと日常生活から遠い気がします。 しかし、気づかないところに、今も受け継がれれている部分があるように思います。 そのことについては、また次の機会にかかせていただきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年02月13日 14時15分59秒
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