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カテゴリ:M氏の像 相模原個展へむけて
しかし、ワシューチンはありふれた名前で再会することはできなかった。 抑留当時、ワシューチンのフルネームや再会のための手がかりがあればなどと考える余裕がなかった、とM氏は残念そうにいった。 お別れに絵を送ったのが一生の別れになった。 『「そうだ!あの絵を記念として彼に贈ることにしよう。 紙もない、絵の具もない収容所生活の中で、 チリ紙の代用に取っておいた火薬の包装紙のシブ紙に、彼から貰った紫の粉インクで描いた収容所の滲んだ遠景は 、粗末な風景画ではあるが、きっと喜んでくれるにちがいない」 と思った。 いよいよ別れの朝がきた。カラカラに晴れ上がった早朝、彼はジープに乗ってハバロスクへ出発することになった。 わたしが、例の風景画を差し出すと、大きな手で私の手を握りしめ 「有難う!有難う!お前は日本に帰らないでシベリヤに残ってくれ、 嫁さんは俺が世話するからシベリヤに残ってくれ、 そしてまたどこかで会おうじゃないか」といった。 目頭に熱いものを感じたけれど、わずかばかり覚えただけのロシア語では、わたしの感情を表現しきれなかった。 「ドスベダーニヤ(さようなら)」の言葉を残して行ってしまった。 モミの木立で囲まれた一本道に、エンジンの爆音がいつまでもこだましていた。』 (『野バラの実に』) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年11月05日 07時49分55秒
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