カテゴリ:旅の重さ
下野国(現在の栃木県)を22代・500年にわたり治めた宇都宮氏にゆかり寺、「河北禪林 神護山 興禅寺」(→→→こちら)の山門にやって来ました。
この寺名は、宇都宮で最初の禅寺であることから、「興禅寺」となり、山号は、「神護山」、寺域を「河北禪林」と定められたそうです。山門の扁額には寺域の「河北禪林」文字が記されていました。 ![]() こちらは中門(ちゅうもん)です。 この興禅寺、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)、赤穂浪士の討ち入りと並ぶ江戸三大仇討とも言われていた浄瑠璃坂の仇討(→→→こちら)の発端となった宇都宮興禅寺刃傷事件の起こった場所でもあります。 ![]() この石像は、縛られた子供の足元でネズミがいるというので、禅僧でもあった雪舟(→→→こちら)の逸話、絵ばっかりを描いて、お経の勉強をしない幼い日の雪舟を仏堂の柱に縛りつけてお仕置きをしたところ、雪舟は床に落ちた涙を足の親指につけ、床にネズミを描いた。を示しているんでしょうかね。 ![]() 本堂の前にあった、宇都宮8代城主 宇都宮貞綱公・9代城主公綱公墓碑と記された石柱。 ![]() この二基のお墓が宇都宮貞綱公と宇都宮公剛公の墓碑になります。 ![]() こちらの興禅寺開山由来によると、 興禅寺は宇都宮氏8代目当主である宇都宮貞綱が、かつて黒羽雲巌寺で第五世住職をしていた真空妙応禅師のために、1314年(正和3年)、地蔵堂があったこの地に寺院を建立して興禅寺としたのが始まりです。 宇都宮貞綱はの元寇の弘安の役に、山陽、山陰の6万もの御家人を率い総大将として九州に出陣した武将で、鎌倉幕府の引付衆(→→→こちら)の一人に任じられたそうです。 また、宇都宮公綱は宇都宮貞綱の次男で、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれたそうです。 室町時代には宇都宮氏の興隆とともに隆盛を誇りましたが、第22代当主宇都宮国綱が豊臣秀吉によって領地を剥奪されたのに伴い、この寺も一時廃寺となりました。 その後、江戸時代に入って奥平家昌が宇都宮城主となるとその勧請を受けて復興されたそうです。 ![]() こちらは本堂、寺額には山名の「神護山」と書かれていました。 ![]() 興禅寺の門前には、「北河原興禅寺開基宇都宮貞綱公」という看板があり、 ![]() 宇都宮貞綱の銅像が建てられていました。 ![]() (宇都宮市で歩いたコース) 【つづく】 ![]() 人気ブログランキング 北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その7) 興禅寺(こうぜんじ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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