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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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正しさをてばなす New! かめおか ゆみこさん

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森の声

森の声

2010.02.24
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カテゴリ:カテゴリ未分類
人間には様々な能力がありますが、それぞれ学び方も、成長の仕方も、成長の時期も異なります。

「肉体の働き」とつながっている能力は、幼い内から急激に発達を始め、青年の頃にピークを迎え、後は次第に衰えていきます。ある程度はトレーニングによってその能力を維持することも可能ですが、次第に衰えていくことを避けることは出来ません。

でも、「精神の働き」とつながっている能力にはこのようなピークはありません。これは非常に個人差が大きく、青年期がピークの人もいれば、死ぬまで成長し続ける人もいます。
それは「精神の成長」そのものには生物学的な限界がないからです。

この「精神の成長」には面白い特徴があって、成長を願っている限りいつまでも成長するのです。でも、成長を諦めたとたんにそこで成長は止まってしまいます。

精神が成長し続けている人にとっては、「世界」は開かれた自由な空間であり、未来には「希望」があります。これは年齢には関係ありません。若くても希望がない人はいます。でも、80才、90才になっても希望を失わない人もいます。

精神の成長を諦めた人、成長が止まってしまっている人にとっては「世界」は閉ざされた不自由な空間であり、どこにも希望など存在していません。

なぜなら、「世界と自分との間に存在している扉」を開けるのは「精神」の働きだからです。そのような人は目の前のトラブルを回避することしか考えません。でも、「希望」がないので前に進むことが出来ず、いつまで経っても同じようなトラブルに見舞われます。

「希望」は与えられるものでも、向こうからやってくるものでもありません。精神の力で扉を開けて、その扉の向こうに発見するものです。だから扉を開かない限り、「希望」と出会うことは出来ないのです。

でも、その「精神の成長」は見えません。教えることも、鍛えることも出来ません。その発達状態を試験で調べることも出来ません。また、特別に「役に立つ能力」でもありません。

「文化」という視点では「精神」は重要な要素ですが、「文明」という視点では「精神」は価値を持っていません。「文明社会」で価値を持っているのは「精神」ではなく「能力」だからです。

早期教育を勧める人たちは、「赤ちゃんだって、幼児だって、鍛えればこんなすごいことが出来るんだから、この能力を開発してあげないのは罪だ」というようなことを言います。でも、そういうことは、「赤ちゃんだって」、「幼児だって」ではなく、「赤ちゃんだから」、「幼児だから」出来ることなのです。そのまま成長するわけではないのです。

赤ちゃんや幼児にそのようなことが可能なのは、まだ情報の入出力を管理する心の働きが未熟だからです。幼児期の「すごい能力」は心が未熟な時期だからこそ出来る能力なんです。ですから、心が成長するに従って、次第にそのような能力は低下していきます。同時に「自信」も失っていきます。
そして、本来幼児期に学ぶべきことを学ぶことが出来ないまま大人になっていくことになります。

脳の進化の歴史では「絶対音階」より「相対音階」、「覚える能力」より「忘れる能力」の方が高度なんです。「具体的に考える能力」より「抽象的に考える能力」。「明確に考える能力」より「漠然と考える能力」の方がより人間的な能力なんです。

実際、前者は機械にでも出来ますが、後者は人間にしかできません。

でも、能力開発を目指す人たちはその古い能力ばかりを育てようとして、新しい能力を育てようとはしません。

確かに、スポーツ選手などでは幼児期からの早期教育によって才能を開いた人が結構います。でも、彼らの現役時代は非常に短いです。スポーツ選手を目指すならともかく、そうでないのならそのような考え方に惑わされないことです。
その他の職業の人で、早期教育で才能を開花させた人をどれくらい知っていますか。その人たちは、若い時だけでなく、年取ってからも現役で活躍していますか。

実は、「年を取ってからも使えるような能力」というものは、ゆっくりと育つのです。若い時に簡単に育てることが出来るような能力は若い時にしか使えないのです。

人間の成長にはその両方が必要なのですが、能力偏重の現代社会では、若い時に簡単に育てることが出来る能力ばかり育てようとしています。その結果一生かけて「ゆっくりと育つ能力」が育たなくなってしまっています。

そのような「能力重視の社会」では、当然ながら「老人」の価値は低くなります。また、老人自身も「ゆっくりと育つ能力」が育っていないので、自分でも「自分の価値」を肯定することが出来ません。

今、大人たちは子どもの「能力育て」に一生懸命です。あれが出来るようになった、これが出来るようになったと喜び、そのために子どもを追い立て、投資しています。その一方で老人や障害者といった「役に立つ能力を持っていない人」は社会的に阻害されています。

せいぜい、「同じ人間だから」、「可哀想だから」、「昔、頑張ってきたから」という理由で大切にされる程度です。今の日本の社会は、老人が「老人として」尊敬される社会ではありません。

幼児も「役に立つ可能性を持った存在」として大切にされているだけで、「幼児としてのありのままの状態」が肯定され、大切にされているわけではありません。

子育ても教育もそのような視点からもう一度議論し直す必要があるのです。

現代では、「教育論」は「方法論」、「能力論」、「学力論」になってしまっていますが、本来「教育論」は「文明論」「文化論」「認識論」として議論すべきものなのです。

そのような視点を持った教育でないと「人間らしい人間」を育てることは出来ないのですから。





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Last updated  2010.02.24 09:14:20
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