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皆さんはお買い物などに行く時に歩いて行かれますか、自転車ですか、車ですか。
子どもをベビーカーに乗せたままですか、それとも一緒に歩きますか。 自動車や人通りが多く危険な道なら自転車や自動車やベビーカーを使うのもしょうがないのですが、でも、もしそれほど危険な道ではないのなら、あまり、簡単・便利を求めずに、お子さんとノンビリと「お散歩」しながら歩くと、楽しいですよ。 もし、「そんな時間はない」とか「疲れるから嫌だ」という理由で歩くことがないのなら、それは勘違いです。というか、むしろそのような意識が人を疲れさせ、忙しくさせているのです。 人が疲れるのは、ただ単純に「やるべき事」がいっぱいあるからではありません。 「次の事」や「他のこと」ばかり考え、「今やっていること」にちゃんと意識を向けず、しっかりと向き合っていないから疲れるのです。 子どもと遊ぶことが出来ないのもそのためです。 昔の人はそのような状態を、「心」と「失う(亡)」という文字を組み合わせて「忙」と書いたのです。 子どもは、「次のこと」や「他のこと」ばかり考えていて「心」が抜けてしまっているお母さんと遊んでも楽しくありません。 子どもは「心と心の触れ合い」を楽しみたいのですから。 子どもにとってはそのための「遊び」なんです。 お母さんがどんなにいっぱい「子どもと遊ぶ時間」を作っても、そこに「お母さんの心」がなく、「頭」と「からだ」だけで相手をしているのなら、子どもの心は満たされず「もっともっと」と際限なく遊びを要求するでしょう。 それは、レストランに行って美味しそうなお料理を注文したのに、展示用の「食べることが出来ないお料理」ばかりが運ばれてくるようなものです。 確かに、「本物のカレー」と「展示用のカレー」は見かけはそっくりです。第三者的には「同じ物」に見えます。 でも、「食べることが出来ないお料理」がどんなにいっぱいあっても、空腹は満たされないのです。 子どもが求めているのは「要求に応じて相手をしてもらうこと」ではなく、「お母さんも一緒に楽しく遊ぶ」ことです。お母さんも一緒に楽しく遊ぶから子どもの心が満たされるのです。 そのためには、「次のこと」や「他のこと」を考えずに、「今やっていること」に集中することです。 そうすれば、「子どもが求めているもの」が見えてくるのです。 あと、よく見かけるのが、乗り物を使わず歩いてはいるのですが、お母さんが一人で前の方を歩き、子どもは後ろの方から必死になってお母さんを追いかけているという姿です。 そしてお母さんは時々振り返り、「早くしなさいって言っているでしょ」「ちゃんと歩きなさい」と怒鳴るだけです。 こんな歩き方をしていたら、子どももお母さんも疲れるばかりです。 見方を変えたら、お散歩の途中の道は、「植物園」のようであり、「テーマパーク」のようであり、「遊園地」のようなものです。 お魚屋さんは「お魚博物館」のようであり、スーパーマーケットは「生活博物館」のようです。 八百屋さんでは「食べられる植物」を展示即売しています。 大人にはそのように思えないかも知れませんが、子どもにはそこに大きな違いはありません。 そして実際、皆さんは道ばたに咲いている草花の名前を知らないでしょう。そこに生きている虫たちの名前も生態も知らないでしょう。 お魚屋さんで売っているお魚のことをどれだけ知っていますか。 「知らない」という点では、「植物園の植物」も「道ばたの植物」も同じなのではありませんか。 ただし、知っていなくてもいいのです。ここで大切なことは「知っていない」ということに気付くことなのですから。 「知っていない」ということに気付くから、興味や関心が生まれるのです。 そして、その興味や関心を子どもと共有すればいいのです。 知ったつもりになっているから何の不思議も感じないし、楽しくもないのです。 道ばたにお花が咲いていたら、子どもと一緒に立ち止まってしゃがんで見る。 摘んでもいいお花なら摘んでみる、匂いを嗅いでみる、「綺麗な色だね」と印象を共有し、「名前はなんていうお花だろうね」と興味を共有する。 植物園では「見るだけ」ですが、道ばたの草花ならそういうことが出来るのです。 散歩の途中や公園に木が生えているなら、黙って通り過ぎずに、触ってみる、お花が咲いていないか、実がなっていないか見てみる、登れそうなら登ってみる。 「桑の実」や「山桃の実」や「木イチゴ」なら採って帰って、家で食べてみるのも楽しいです。美味しいですよ。(結構、「食べられる木の実」があるのです。) ヨモギが生えていたら採って帰って「ヨモギ団子」を作ってみる。 時々は空を見上げ「雲見」を楽しむ。 「風の音を聞く」 夕方であれば、色々な所から匂って来る「美味しい匂い」を楽しんでみることも出来ます。 秋になり、落ち葉が落ちてくるようになったら、それをダイレクトキャッチしてみる。綺麗な葉っぱを集めてみる。それらで何かを作ってみる。 そういうことが全て「遊び」なんです。 そして、そのような関わり合いが、子どもの意識と、心と、感覚の世界を広げるのです。 これらを見ず、体験もしないまま、ただ「早くしなさい」とその前を通り過ぎるだけではもったいないです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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