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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2015.03.01
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カテゴリ:カテゴリ未分類
子どもの育ちには「体験」と「仲間」と「物語」が必要だということで、簡単にですが「体験」と「仲間」について書いてきましたが、問題なのは最後の「物語」です。

実はこれが一番大切なのですが、一番分かりにくいのです。そして、この「物語」の重要性に気付いている人は多くありません。

昨日も書いたように子どもの育ちにおける「時間」「空間」「仲間」という「さんま(三間)」の重要性を説く人は多いですが、本当は「物語」が存在しなければ、時間」も、「空間」も、「仲間」もその意味を失ってしまうのです。

なぜなら「時間」や、「空間」や、「仲間」といったものを活性化させるのが「物語」の働きだからです。


犬や猿のような社会性を持った動物たちは、その育ちに「体験」と「仲間」が必要になります。

その点では人間と同じです。

でも、その育ちに「物語」が必要なのは人間だけです。

なぜなら、人間だけが「本能」ではなく「心」で「つながり」を作る生き物だからです。

人間は「物語」を介在させないことにはつながり合うことが出来ないのです。

私たちの社会では、「お金」や、「宗教」や、「民族」や、「国」や、「思想」や、「遊び」や、「言葉」といった様々なものが「人と人をつなぐもの」として働いていますが、でも、実際には、それらのもの自体には「つなぐ力」はありません。

そこに「物語」が介在して初めてそれらが「つなぐもの」として機能するのです。

つまり、人と人が「お金」でつながり合うためには「お金の物語」が必要だということです。その「お金の物語」を共有し合うことで「お金」を通してつながり合うことが出来るようになるのです。

ですから、「お金が欲しい人」と「お金が欲しくない人」では、「お金」を通してつながり合うことは出来ません。

でも、ドングリや小石のような些細なものでも、その「物語」を共有することが出来れば、それらが「つなぐもの」として機能するのです。

「物語が人と人をつなぐ」というのはそういうことです。

お金だけでなく、他の全てのものにおいても同じです。

ドングリやお金は「見えるもの」ですが、「物語」は「見えないもの」であり、目に見えない空気のように存在しているので、気付く人が少ないのです。


また、「言葉」が通じるのも「物語」を共有しているからです。

「木」という言葉が通じるためには、お互いが同じ「木の物語」を共有している必要があります。

「木」を「森や生命の物語」とつなげて理解している人と、「紙や材木の資源としての物語」とつなげて理解している人とでは、「木」という言葉でつながりあうことは出来ないのです。

「木を大切にしよう」という言葉の意味も全く異なったものになるでしょう。

前者の人は「出来るだけ木を切らないようにしたい」と思うのに対して、後者の人は「切った分だけ植林すれば同じでしょ」と思います。

そしてお互いに「こいつは何を言っているんだ」と思うでしょう。


1997年(平成9年)の神戸で起きた14歳の中学生による『酒鬼薔薇事件』頃から、学校現場での「道徳教育」や「生命の教育」の重要性が強く言われるようになりましたが、実際にはそれは全く効果を発揮していません。

ネットなどで見ていると、上村遼太くんが殺害された事件だけでなく、未成年の子どもによる、もしくは子ども時代の問題を抱えたまま大人になってしまった人による凄惨な事件が次々と起きていることを知ることが出来ます。

全く、呆れるほどちょくちょく起きています。

大人が子ども達にどんなに「生命を大切にしよう」と訴えても、それは大人の価値観の押し付けに過ぎません。ですから、その価値観でつながり合うことも出来ません。

もし本気で、「生命を大切にする子ども達」を育てたいのなら、子ども達に「生命の物語」を伝えるしかないのです。

「価値観の押し付け」は逆の結果をもたらすだけです。

ただ、誤解されると困るのは、ここで言う「生命の物語を伝える」というのは、「そのような知識を教える」ということではありませんからね。

自分たちで種を植え、世話をして、花を咲かせ、また種を収穫して、翌年に育てる。

子どもはそのような体験を通して、「生命は繰り返してつながっていくものだ」という物語を学びます。

自分たちで野菜を作り、それを食べる。(プランターでも出来ます)

そのような体験を通して、「自然」と「自分の生命」のつながりの物語を学びます。

生き物を可愛がるだけでなく、死ぬまでちゃんと世話をしてあげる。
「ペットが死ぬと子どもがかわいそうだから飼わない」という人が時々いますが、そのような人は子どもに「生命の物語」を伝えることが出来ないでしょう。

「死の体験」は、「生命の物語」の根幹です。この事実と向き合わせないままで「生命の物語」を伝えることは出来ません。

また、ザリガニや金魚が死んだとき、生ゴミとして捨ててしまうのも避けた方がいいと思います。

子どもがこのような体験を通して「生命」と出会ったときに、大人が「生命の物語」を語ってあげることで、子どももその「生命の物語」を受け入れるようになるのです。

「言葉」は体験とセットで伝えられるとき、「生きた言葉」になるのです。

言葉だけを覚えさせても無意味です。

でも実際には、大人達はその「生命との出会いの場」を子ども達から奪うようなことばかりをしています。
そして、言葉だけで「生命の大切」を説いています。

でも、「生命」と出会ったことがない子に、「生命」の大切さが伝わるわけがないのです。

「生命」は素晴らしいものであると同時に、悲しいもの、苦しいもの、残酷なものでもあります。そういうもの全てをひっくるめて「生命」なんです。

そういうことを子ども達に伝えて上げて下さい。

「わらべうた」で有名な阿部 ヤヱさんは子どもの頃とんぼを捕まえて、両方の羽根を半分ちぎって、牧場の馬に見立てて遊んでいたそうです。

こんな風に書いてあります。(「わらべうた」で子育て/応用編/福音館)

遠野では、蹄がわれない馬が評判で、馬の牧場がたくさんあったのです。羽をとったトンボを30匹ぐらい箱にあつめると、トンボはみんな南の方へ飛ぼうとするから、同じ方向を向いてちぎれた羽をキラキラさせて、それはきれいでしたよ。

女の子でもこんな遊びをしていたのです。でも、それを近所の「つっつ婆」に見せに行くと、「アゲヅ(とんぼ)というものは羽っこがあって、空飛んで生きるものなんだ。羽をとられたら殺されたも同じだ」と叱らたそうです。

他にも素敵なことがいっぱい書いてあるのですが、長くなるので省略します。

この話のポイントは、「つっつ婆」が「生命のはかなさ」について伝えただけで、「トンボを捕って遊ぶこと」自体を否定したり、非難したのではないということです。

それ自体を禁止したら、子どもに「生命」について教えることが出来なくなってしまいます。
このようなことは、自分で気付いて、自分の意志でやめることが重要なのです。

大人はその手助けをすることしか出来ないのです。

でも、多くの大人達が「生命」については語らず、行為自体を禁止してしまいます。時にはそのような行為をしている子を否定しています。






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Last updated  2015.03.01 10:25:07
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