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教室で子どもたちが「紙が欲しい」「木が欲しい」と言うとき、それだけではどんな紙、どんな木が欲しいのかが分からないので、「何に使うの?どんな紙(木)が欲しいの?」と聞くのですが、ほとんどの子が「普通の紙」とか「普通の木」と答えます。
それで、色々な紙を見せて「これも普通の紙(木)だし、これも普通の紙(木)なんだけど、どういう紙(木)が欲しいの」と再度聞き直します。 すると、「こういう紙(木)が欲しい」とその中から選びます。 でも、その「一つ」を説明できずに、みんな「普通」と表現するのです。 これが私には不思議なんですが、子どもたちはこの「普通」という言葉をどこで覚えるのでしょうか。 世の中には「普通の紙」や「普通の木」なんてものは存在していません。 それはあくまでも「その人にとって普通」というだけの話であって、「客観的な存在としての普通」などというものはこの世界には存在していないのです。 もちろん「普通の子」などというものも存在していません。 でも、多くのお母さんたちが我が子に「普通」を求めています。「他の子と目立って異なっているところ」や、「お母さんに理解できない部分」があると、必死になってその部分を直そうとします。 学校の先生も同じです。 そしてそれがしつけであり、教育であるとも考えています。 確かに「成績が優秀」、「ピアノが上手」、「英語が話せる」などの「人よりも優れたところ」は求めていますが、でも、「人と異なっている」のは困ることだと考えています。 そこには「教え込む」という考え方はありますが、「育てる」という考え方がありません。 学校の先生たちも、教員の資格を得る際に「マニュアル化された教え方」は学んでいますが、子ども一人一人の気質やら個性やら性格などを感じ取り、それらに合わせた育て方を学ぶような教育は受けていません。 実際、日本の教育システムではそのようなことをしたいと思っても出来ません。 「この子は数学が好きだから特に数学を十分にやらせてあげよう」とか、「この子は歴史が好きだから歴史に関する色々な物語をいっぱい教えてあげよう」などということは出来ないのです。 それは、日本の教育の目的が「普通の大人」を育てることだからです。 だから先生たちは子どもたちを「普通という型」にはめたがるのです。 でも実際には、「普通の子ども」なんかこの世に存在しません。 だから子どもたちは、学校にいる時には先生が求める「普通」という型に合わせようと「自分」を抑えながら頑張っています。 ですから当然、自己表現などしません。そんなことをしたら「普通」ではなくなってしまいますから。 私は中学生の頃は本ばかり読んでいました。 休み時間にも外に出て行かずに部屋で一人で本を読んでいることが多かったです。 それで、ホームルームで「友達の良いところ 悪いところ」というテーマで話し合ったとき、「しのくんは休み時間も外に出ないで本を読んでいます。それは良くないと思います」などと言われました。 余計なお世話です。 それに対して、「育てる」という方法では、相手に合わせます。 リンゴを育てる時には、リンゴに合わせた育て方をします。 犬を育てる時には、犬に合わせた育て方をします。 普通、そうですよね。 だから、「太郎くん」を育てる時には、「太郎くん」に合わせた育て方をする必要があるのです。 それが「育てる」ということです。 でもそのためには、「太郎くんの物語」を感じる能力が必要になります。その能力があるから合わせることが出来るのです。 「気質の学び」はそのためのものでもあります。 「教え込む」という方法では「教え方」や「教える側の都合」ばかりが優先され、肝心の「子どもの育ち」という視点がありません。 ちゃんと教えているのに、子どもの成績が上がらなければ、それは「子どものせい」なんです。 でもそのような考え方では子どもは育ちません。 ただ、人の評価や顔色ばかりを窺うような大人になるばかりです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
<余計なお世話です
思い出しました。 私の息子も中3の受験期の時、すでに内申書などに縛られる 子ども達の様子を毎年感じたり親の噂話を聞いて私も息子には その負担が重いだろうと私立に決めていました。 集中力の高い子どもだったので、勉強も飲み込みが早くノ―トを 取らず授業をきくことで理解するタイプでした。 教師はノートを取るようにと全体にはっぱをかけます。 ノート提出が内申に影響します。 それを適当に書いたノートを提出していました。 それを周りは色眼鏡で見たり、他にも嫌がらせを受けたりと 息子には学校の必要性を感じなくなった時、私はずる休みを 許可しました。年間、30日という範囲の許可です。 それを上手に生かしていたらある時ホームルームで取り上げられたそうです。 その時の言葉が「余計なお世話。ほっといてくれ」と言ったそうです。 それで教師もクラスも干渉しなくなったのです。 3歳下の娘は、小学校の4年ごろから言い出しました。 「普通がいい」と。 教師の言葉やクラスの雰囲気を敏感に感じ取っていたと思い 見守り続けました。 公立高かなと思っていましたが、最後の決定において親子で 私立に決めました。 学校教育現場が今どのように変化しているのか、していないのかは、もう疎くなっていますが、新聞で知る限りさらに現場は 大変になっているのではないかと懸念しています。 (2015.10.09 12:23:30)
みっこさん
>集中力の高い子どもだったので、勉強も飲み込みが早くノ―トを >取らず授業をきくことで理解するタイプでした。 私はノートを取るのが苦手で、予習と復習はいっぱいやりましたが、授業中は話を聞くだけでした。 ノートを取っても頭に入らなければ意味がないとも思っていました。 (2015.10.09 13:25:24)
発達障害ってなんだろう、、、
発達に障害が出ている状態 ストレスを吐き出している状態 これ以上傷つかないように自分を守るために、心を閉ざしている状態 本人にとっては、それが心地よい状態 う〜ん 知り合いに数人いるんです。 アスペルガーの診断がついた子たち。 親は、熱心に自閉症や子育ての勉強をしている方が多いです。 でも私は、これのどこが障害なの?と仲良くなればなるほど思います。 こんなんで診断がつくなら、生粋の憂鬱質の子なんかはほとんどつくのでは? きっと私も診断がつくでしょう。息子も診断がつくでしょう。息子は、「自分の思い通りに動かそうとする大人、思い通りに動かない子供を責めてくる大人」のニオイを嗅ぎ分けている感じがします。そういうニオイのきつい大人の前では、能面のような顔になります。 私の母親がいつも言うのです、私が子供の頃、ぼーっとして、目がうつろな事が多くて、夢見がちな子供だったと。 はっきり覚えています。空をみていると、自分の中の真実と繋がるような感覚がするのが好きだったのです。でも、、もしもあの頃、私のうつろな状態を、何を考えているのか分からないなど言って病院に行かされていたら、、、どうなっていたかな?私は医者の前では絶対に自分を出しませんでした。私が高校の時、ずっと眠くてしょうがなかった時、、、成人して間もない頃、自分が何者か分からなくなったあの頃、、子供を産んで、生きることがなんなのか分からなくなって毎日泣いていた時期、、、もしあの時、親に病院に連れられて、「あなた自閉症だっのよ」「あなた普通じゃなかったのよ」って母親に言われたら、、、そんなこと言う医師や母親にはもう一生心を開かないと思う。 どうしてそうなったのか想像しようともしないで、簡単に名前をつけることの方が異常に感じます。 「やっぱりあんたになんか心を開きたくもない。」そう思って、もっと心を閉ざしたと思う。なんで心を開かないのか、考えてほしいって思うと思うな、、、もしかしてこんな家庭が今たくさんあるのでは、、、? いつも賞罰のある関わり、思い通りになったら褒めて、思い通りにならなかったら叱られて。ペットや奴隷のように扱われる親子関係、、、、、だから、生きた心地がしなくて心を閉ざしているだけかもしれない。 生きていくことがどういうことが、もう一回ちゃんと向きあいたくて、誰とも話さず部屋に閉じこもっているだけかもしれない。信頼できる人がいないだけかもしれない。 今まで、本当の自分で生きてこなかったことに気付いてしまって、本当の自分で生きてみようとしてるけど、自信がなくて怖くてたまらないのかもしれない。だから、人前に出るとからだが震えてうまくありのままでいられないだけかもしれない。 私は、社会やまわりの人達と心を閉ざした時期もありました。上に書いたような理由で。ちゃんと理由があるんですよね。仮面をかぶって生きていた時よりずっと生きていた実感はありました。いや、仮面をかぶっていたのだって、生きる為でした。 でも、、、そのちょっとしんどい状態だけを切り取って、もし「自閉症」だの、「引きこもり」だの、「○○人格障害」などとまわりからレッテルを貼られたら、ますます心を閉ざす気がしますが、そんなことはないですか。 子供たちに診断をしている医師は、そして、その診断を受けて「うちの子は障害だから」と思っている親は、そういう背景は見えているのでしょうか。そういう背景が無い場合もあるかもしれないけど、あるかもしれない場合だって、あると思います。 篠先生の気質を学んで、こんなふうに考えるようになりました。 まとまりないですが、思うまま書いてみました。 (2015.10.09 15:26:44)
今日の記事を読んでいて魚が好きな息子にとことん魚を学ばせてあげた魚くんのお母さんの事を思い出しました。
(2015.10.09 15:34:05)
マシュマロさん
>知り合いに数人いるんです。 >アスペルガーの診断がついた子たち。 >親は、熱心に自閉症や子育ての勉強をしている方が多いです。 >でも私は、これのどこが障害なの?と仲良くなればなるほど思います。 それでも、状況やお母さんのタイプによっては「診断」が必要な場合もあるのです。 明日このことについて書いてみます。 (2015.10.09 16:15:01)
初めまして。
わたしにはもうすぐ5歳になる娘がいます。 毎日、ブログを読ませていだき、毎回、目から鱗が落ちるような教えを得たり、わたしが心のどこかで感じていたことを言葉にしてくださったり、子育てやわたしの生きる指針にしています。 今回、書かせていただいたのは、わたし自身のことでどうしようもない気持ちになっているからです。 わたしは東北で東日本大震災を体験しました。 震災前は、好きな仕事をし、毎日楽しくて、ひととコミュニケーションをとることが好きでした。 しかし、震災に遭い、ひとの無関心さ、冷たさを味わいました。 また、生活や価値観がひっくり返り、生を死、政治や日本やこどもたちの将来について考えるようになったり、ひとの悲しみにとても共感するようになりました。 また、心から笑ったり、楽しいと思うことができなくなりました。たぶん、震災でみんな辛い目にあったから、楽しんだらいけないと自制しているのかもしれないし、もっといろんなことが原因かもしれません。 震災の体験に加え、わたしは憂鬱質です。 いろいろ読んでみましたが憂鬱質がしあわせになる方法は書いてありませんでした。しあわせになるマニュアルなんてあるわけありませんが、どうしようもなく書かせてもらいました。 また、笑えるようになるには、どうしたらいいのでしょうか。 いまのところ、娘は多血質で、おともだちと遊ぶことが大好きです。 娘はとてもよくお話してくれてよく笑っていてかわいくてしょうがありません。 (2015.10.09 16:43:16)
こはるのママさん
>いろいろ読んでみましたが憂鬱質がしあわせになる方法は書いてありませんでした。しあわせになるマニュアルなんてあるわけありませんが、どうしようもなく書かせてもらいました。 >また、笑えるようになるには、どうしたらいいのでしょうか。 憂鬱質の人は、忘れようとしても忘れられず、逃げようとしても逃げられません。 じゃあどうしたらいいのかというと、その苦しみや悲しみの意味や価値を受け取ることが出来るまで真剣に考え続けることです。 悲しみや苦しみには必ず意味や価値があるのです。 そして、そのことに気づいた人を成長させる力があります。 それを信じてください。 (2015.10.09 19:42:50) |