今日は幻の豆腐造りを教えてくれたおばあとおじいのことを書きます。
1985年、宮古島トライアスロンの第1回大会に子供3人を連れて行きました。鉄平が小学校1年生、純平はまだ3歳くらいでした。私のゴールを待つ間に純平は疲れて競技場で寝てしまいました。女房は困ってしまいましたが、そのとき西原の部落の池間さんの奥さんが純平を見てくれたのです。それが縁で、池間さんのお宅にゴール後お邪魔するようになりました。
2年目の時でしたか、近くに美味しい豆腐屋さんがあるからと連れて行ってもらいました。地元でも幻の豆腐と言われて、あまりたくさん造らないので、地元の市場にも出しますがすぐに売り切れてしまうという話でした。
その豆腐屋さんは小学校の横の道を入ったサトウキビ畑の中にありました。石嶺豆腐です。
石嶺勇太郎さんとシゲさん夫婦が棲んでいました。昭和22年小さなユクタギ部落の石嶺家長男の勇太郎さんは軍服姿で西原部落から風呂敷ひとつ持ってきたモンペ姿のシゲさんを嫁に迎えました。勇太郎さん22才、シゲさん24才でした。勇太郎さんは生みの母を知らず、シゲさんは父を知らず、二人とも片親に恵まれない環境で育ちましたが、二人は初夜の日に誓い合いました。「明るく楽しい家庭を築こう!!」と、・・・。やがて、正直で働き者の二人は1男5女の子宝に恵まれて、子供たちは大きな病気をすることなく、すくすくと育っていきました。勇太郎さんは農業(さとうきび)と養豚で生活を立てていましたが、6人の子供を育てるには生活も苦しく、シゲさんは43才のときに少しでも生活の助けになるようにと豆腐作りを始めました。昔ながらの生絞り、釜戸で薪を燃やして、呉汁を煮て、海水で固めるという作り方です。たちまち島で人気の豆腐になりましたが、海水汲みと薪の準備はおじいも手伝いますが、作るのはおばあ一人ですから、午前4時ころに起きて2鍋つくるのが精一杯でした。
私が、石嶺豆腐にお邪魔するようになったのは、子供たちも独立して、落ち着いた生活ができるようになったころでした。おばあも豆腐でそんなに儲けなくてもよいのだけれど、島の人たちに人気があってやめられないと言っていました。何しろ本土の豆腐よりでかくて締まっている。大きさで倍、目方では4倍くらいはある。でも1丁が140円でした。最初に行ったときにまず出来たてのゆし豆腐(型に入れて固める前のおぼろ豆腐)をいただきました。海水で固めるので、塩味がついていますが、甘いのです。3~4年、毎年伺ってはご馳走になり、帰りに豆腐をお土産にもらってきました。そのために、おばあはいつもより早く起きて一鍋余分に作ってくれます。
何度も伺っているうちに自分で豆腐が作れたらいいなと思い、おばあに作り方を教えてとお願いしました。おばあは気よく教えてくれました。それでは、作り方を写真入りで説明しましょう。
まず、にがり代わりに使う海水を汲んでくるのはおじいも手伝います。週に1回くらい西平安崎辺りへ汲みに行き、外のポリタンクに貯めておきます。大豆は国産がよいですが、それほど豆にはこだわっていません。前の日に水に漬けてポリバケツの中に入れておきます。
一晩水に漬けた豆をグラインダーにかけて磨り潰します。これが呉汁です。
これを大きな脱水機の中に入れて絞り、生豆乳と生オカラに分けます。十分にこなれてないオカラはもう一度水を加えてグラインダーにかけると、もう少し豆乳が採れ、オカラもより細かくなります。
そうしてできた豆乳を釜戸の大きなアルミ鍋に移します。
釜戸はふたつあり、おじいが準備しておいた薪をくべて沸かします。
ふきこぼれないように見張りながら、おじいが育てている豚のラードを消泡剤に加えます。沸騰しかかった頃合を見計らって、びっくり水を加えて少し温度を下げたところで、にがりの代わりの海水を少しづつ混ぜて行きます。
すると豆腐が固まり、水と分離してきて、ゆし豆腐ができます。
それを型に入れて、・・・。
重石をします。重石の重さと、時間によって、硬さは調節できます。
出来上がった豆腐を切り分けて、・・・。
袋につめて出来上がりです。ゆし豆腐も人気があるので、半分はゆし豆腐のままで袋につめます。また、温めた豆乳をニガリを入れずに温度を下げていくときに表面に張ってくる蛋白質が湯葉ですが、湯葉も少し作ることがあります。
以上が私がおばあから伝授された豆腐作りです。私は海水の代わりに天然にがりを使っているのと、消泡剤のラードを使っていない点が違いますが、その他は同じです。
おばあが70才を超えて豆腐つくりが少しえらくなってきた時に、四女の洋子さんがご主人の山村日出男さんを連れて宮古へ戻ってきました。1993年のことです。それからおばあの豆腐は山村夫婦に受け継がれ、パーキンソン病を発症したおじいの世話も忙しくなったおばあに代わって作られるようになりました。
平成15年3月29日おじいが突然亡くなりました。その年のトライアスロンで訪ねたとき、おばあが一人でさみしそうにしていました。1年経たないうちに後を追うようにおばあも逝きました。
今年石嶺豆腐を訪ねたら、山村夫婦に受け継がれた幻の豆腐は健在でした。
鉄平と一緒に来た友達もゆし豆腐には大満足でした。
後を継いだ山村夫妻と記念写真。ともにおばあの兄弟弟子です。私は豆腐の収率が悪いと言ったら、ミキサーで二度挽きするとよいと教えてくれました。
子供たちが作ったおじいの記念誌をいただいてきました。
おじいは几帳面な人で、日記を書いていました。その中に私の名前もときどき出てきます。これは平成6年の日記。
これは平成8年の日記。
これは平成11年の日記です。
庭にはおじい自慢のユウナの花が今年も咲いていました。