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2010.03.02
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カテゴリ:日替わり日記
芸者さんたちはこんな風でしたか

bonbonusさん
この続きが楽しみですが、このタイトルの【国家】という概念は江戸時代はもちろんなかったと思います。
国家という概念が国民に意識されたのは実に明治以降近代西洋国家がアジアに植民を開始した頃だと思いますが。


そのとおりで、黒船襲来でにわかに日本という島国がひとつにまとまる必要がでてきました。倒幕以降、帝国憲法や西洋的軍隊の創設なども、西欧へ視察に行ったり、教えを請うたりして泥縄ともいえるにわかづくりで急ピッチで国という概念を創りあげたわけです。
そうしたなかで「君が代」も生まれでたわけです。それの謎解きがとても面白いのです。

たまたま眼にした水谷川忠俊の「君が代のひみつ」というサイトに興味をひかれ、関連を追って調べてゆくと興味深い事実とつきあたった。
水谷川忠俊はどんな人かというと、名家・近衛秀麿氏の二男で作曲家、NHKの連続テレビドラマのテーマ曲を作曲するなど幅広い音楽活動をする一方、雅楽曲の複曲、監修に取り組むなど、雅楽の研究も続けている人だという。ちなみに、近衛家は皇室内で雅楽を統括する家柄でもあった。その人の書いている文によると、

「君が代」の歌詞の原型は、十世紀の<古今和歌集 巻第七 賀歌>に「我が君は千代にやちよに さざれ石の巌となりて苔のむすまで」としてみられ、十一世紀の<和漢朗詠集>下巻「祝いの部」には今の「君が代」の形で見られる。近世には、慶祝の歌として、江戸初期の流行歌だった隆達節や琴曲、地歌、長唄などに歌われ、特に薩摩地方では琵琶曲蓬莱山や民俗芸能の歌詞として広く親しまれていた。
明治初年、薩摩藩士たちにに軍楽を教えていたイギリス軍人フェントンが日本国歌の制定を進言すると、砲兵隊長大山弥助(のち陸軍元帥大山巌)らが歌詞に「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼してできたのが初代国歌「君が代」である。日本語を深く理解していたとは思えないフェントンの「君が代」は珍妙奇天烈だったが、明治三年九月東京越中島での薩摩、長州、土佐、肥後四藩の大調練のさい、明治天皇御前で薩摩の軍楽伝習生によって演奏された。


とある。そうして「(「君が代」は国歌として)二十一世紀を背負う若者たちが誇りと共感をもちにくい。もう少し現代的で歌いやすく親しみの持てる詞歌を公募したらいい」と、やんわりと指摘している。
水谷川が直接は触れていないが、そこからピンとくる文言がある。
「江戸初期の流行歌だった隆達節」という部分である。
昨日の日記に書いたように、「隆達節」は、江戸から幕末の時代のきわどい恋歌である。いや、恋というより性愛の歌といってもいい。
幕末の騒然とした時代に、明治初期の政争のあいまの息抜きに、お座敷で馴染みの芸者の膝枕で西郷隆盛や坂本龍馬等も歌っていたかも知れないザレ歌だ。しかし、それはその頃の流行歌だった。
隆達自身の筆による屏風への書がある。
最初の第一首が『君が代』の歌詞と同じ「君が代は千代に八千代にさざれ石の岩ほとなりて苔のむすまで」である。
 そこからつづくのは、
[一面]
 おもいきれとは身のままか誰かはきらむ恋のみち
 雨の降る夜の独り寝はいずれ雨とも涙とも
[二面]
 人は知るまじ我が仲を頼むぞ側の扇も帯も
 この春は花にまさりし君持ちて青柳の糸乱れ候
[三面]
 花を嵐のちらすような雪に袖うち払ひ誰かおりやらうぞの
 悋気(りんき)心か枕な投げそ投げそ枕に咎はよもあらじ
[四面]
 月もろともに立ち出でて月は山の端に入る我は妻戸に
 そなた忍ぶと名は立ちて枕並ぶる間もなやの

屏風には、遊里の風景が描かれ、これを読むかぎり「君が代」の「君」とは親しい(馴染みの)人、いつまでも愛したい人を指していて、独りで寝るのは淋しいのどうのこうのと解釈できる。
明治初期のお偉いさんたちが、酒の席などで歌っていた恋歌の歌詞をそのまま流用して「愛する人」とは天皇陛下のことに(してしまえばいいジャン)と作曲を依頼した大山弥助(のち陸軍元帥大山巌)のアンチョコな思いつきで国歌ができたのではないかと思いつく。大山も、まさかとりあえず作った歌が、後々まで歌われると思っていなかったのかも知れない。
「君が代」信奉者たちは、そのルーツを『古今和歌集』と結びつけてきたが、薩摩藩等で盛んに歌われていた「恋歌」が元歌だったということを知らなかったか、知っていても黙っていたというのが真相のようだ。
まあ、恋歌=国歌であってもかまわないとは思う。しかし、その場合の「君」は「愛する人」「添い寝をしたい人」という意味が本意だったということも理解して、歌うべきであろう。





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Last updated  2010.03.02 15:36:45
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